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「同」ではなく「和」でありたい

協調性は色々なシチュエーションで必要とされます。どこでも必要とされるために、同調圧力と言って嫌がられることもありますが、そもそも協調と同調は異なります。

協調は何かの目的のためにそれぞれが出来ることをすることであって、全員が同じことをすることではありません。同じことを他人に求めるのは協調とは言えませんし、そもそも目的を達成するためではなく、同じことを他人がすることが目的になってしまっています。手段が目的になっているわけです。

何かの組織が目的を達成するために人を集めたとして、その中での役割は各々異なるはずです。そうでないと組織が成り立ちません。

別の言葉で言えば、「和」と「同」は意味が違います。

和とは異なるものを合わせて新しいものを生み出すことであり、同はそのまま異ならないことを表します。

四則演算で言えばまさにそのままですが「和」とはプラスのことであり、「同」とはイコールです。

音楽の和音も複数の異なる音を合わせてさらに印象的な音を生み出します。同じ音を奏でることではありません。

こういったことを思うと頭に浮かぶのが、晏子の逸話です。

古代中国春秋時代の斉の国の宰相だった晏子(晏嬰)が仕えていた景公が、狩猟からの帰還に駆けつけてきた侍臣の梁丘拠を見て、
「梁丘拠だけが私に和するなあ」
と言ったときに、晏子は
「彼は君主に同しているだけであって和しているわけではありません」
と言い、その後に、
「『和』とはスープを作るようなものであり、水と火を使って調味料や具材を合わせて料理人が作るものです。君臣の関係も同じであり、君主の言うがままに従うのではなく、国家のために君主が間違っていれば臣下が反対することが必要です。しかし、梁丘拠は違います。君主の言うことやることにそのまま従っているだけです。水で水を調理しても誰が食べられるでしょうか。種類の異なる楽器が同じ音だけを出していて聴けるものでしょうか。君臣は『同』であってはならないのです」
と言う諫言を行いました。

斉の景公は暴君ではなくとも凡庸な君主であり、ずっと晏子が諫言をし続けて支えていました。その中の1エピソードですが、今の時代の人にもスッと理解出来るものだと思います。

同じ時代の孔子も、「和して同ぜず」という言葉を残しています。こちらの方が今の日本でもポピュラーでしょう。

そう言えば、日本最初の憲法と言われる「十七条憲法」の最初に、
「和を以て貴しとなす」
とありますが、この「和」が「同」ではないことは、改めて考えてみるべきではないでしょうか。

同じことをすることが仲良くすることではありません。家族間でも友人間でも、学校でも会社でも、他人に同じことを求めるのは貴いことではないのです。目的に沿って違うことをすることが重要であり、それは多様化が進む現在でも通用する金言ではないでしょうか。

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