日本学術会議と政権の揉め事について
日本学術会議と政権の揉め事については、一般人にはどれくらいの違法性があるのか分かりませんし、どれくらいヤバいのかは主張している人の思想にも絡んでくるので、公平なジャッジというのがなかなか見えてこないのですが、個人的な感想としては、ニュースで最初に聞いたときには
「どっちもダセえwww」
という印象でした。
政権に文句を言う学者を排除しようとする政権には寛容さや柔軟性が足りないし、学者の側も文句を言う政権が自分を受け入れて当然だという傲慢さとみっともなさが入り交じって見えます。
そんなに色々言われたくないのであれば、政権側は自分たちに従順な学者を集めて
「日本御用学者会議」
でも作ればいい話ですし、学者側もそんな政権による任命が必要なポジションなんてこっちから願い下げだ、と振り払ってほしいものです。
芸術にしろ学問にしろ、人のお金でやっている以上はパトロンがアレコレ言ってくるのはある程度までは当たり前のことです。
その一方で、政府としては批判的な意見を全て封じてしまうのも問題です。古代中国の頃から、民の口を防ぐのは川をせき止めるようなものでいずれ決壊する、という言われてきました。
学校・学問の府における政府批判は政府が身を正すために必要な物です。もちろん全てハイハイと聞かないといけないわけではなく、取捨選択しないといけません。1951年のサンフランシスコ講和会議における全面講和論・単独講和論のように、理想を重視する学者と現実を重視する政治家で考えが異なるのは仕方がありません。
それでも、政府の現実重視に対するカウンターで別の考えを提示する存在も大切です。教育や学問において理想を言うのは当たり前で、現実だけを教える学校に何の価値があるでしょうか。
またその一方で、今回の政府の不承認の方針に対して、80年代には事実上全部認める儀礼的なものだった、ということを持ち出して批判する向きもありますが、前例なり判例なりあろうとも社会情勢が変われば別の対応を政府が取るのも当然です。あの頃は中国が日本の安保上の脅威ではありませんでしたし、過去の決定を二度と変えてはならないなんて話はナンセンスでしょう。
40年前からパラダイムが変わっていない学問分野なんてないでしょうし、それは社会の他の領域でも同じでしょう。
結局のところ、今回の問題は政治と教育、現実と理想のせめぎ合いということではなくて、もっと卑近な菅政権賛成派と反対派の感情のぶつかり合いが、問題を大きく増幅させているように思えます。
どちらも折れずにこのまま揉め続けたら、最終的には裁判で決着という話になるでしょうけれど、むしろプロレス的というか、お互いに相手が楯突いてくることを分かってて行動しているように思えてしまいます。もちろんそんなことは無いのでしょうけれど。
どっちか片方を支持する人から見たら、もう一方はとんでもない無茶苦茶な奴らだ、という扱いになりますが、どちらにも与しない立場からすればどうでもいいような話です。
私は別に反知性主義でもありませんしアナキストでもないので、学者には学者の立場も考えもあって、政権・政府には税金の管理・使い道の考えもあることは理解しています。ですので、両者ともどこかで落とし所を見つけて折り合ってほしいですが、どうなるんでしょうね。裁判で争ったら最高裁で判決が確定するまでに、菅政権が寿命を迎えているのは間違いないでしょう。