お殿様は憧れの存在か?
社会的地位が高い存在というのは憧れの存在ではありますが、じゃあいざ自分がなってみたいかというと必ずしもそうとはなりません。
代表的なのは政治家(特に総理大臣)とか大企業の経営者とかでしょうか。経営者の方はやり方次第ではとてつもない大金を報酬として得られるでしょうけれど、使い切れないほどの収入を得ても幸福の効用は一定のところで限界が来るはずです。それ以上はプレッシャーにしかなりません。
プレッシャーで言うと政治家や首相だとさらに半端なくなります。収入も決まってますし。人によったら賄賂でウハウハだと思うこともあるかも知れませんが、普通はそこまで脳天気でもないでしょう。
収入や名誉よりも、激務や精神的圧力の方が大きすぎるため、一般人にとって憧れだけでは割に合わないとも言えます。医師(特に勤務医・救急医)も同様でしょう。
現代社会では社会的・法的な制約があるので、それらを無視してまで好き勝手に振る舞えませんが、じゃあ昔は出来たのか。
いわゆる殿様、武士の頂点ですね、大名とか藩主とか地位としては言い方は色々ありますが、その場所においてはトップとなる人物です。そういった「お殿様」であれば何でも出来たのか、というとそうではありません。
そもそも江戸時代には、時代的に自由気ままに生きることが出来た人間などごくわずかしか居ませんでした。子は親の仕事を強制的に継がされますし、次男三男以下は部屋住みの居候か養子に出されます。今よりも地位が低かった女性については言うまでも無くほぼ自由はありません。士農工商(実際にはこういうランク付けは無かったらしいですが)のどのポジションでも似たようなものです。比較的、商人については丁稚奉公から手代、番頭と進んで自分の店を構える出世者もいましたが、商人だって贅沢しすぎれば幕府や藩から睨まれて、お金を貸さざるを得なかったり取り潰しされたりします。
身分・職業のピラミッドのトップに位置する武士階級の、さらにトップの殿様だって自由はほぼありません。後継ぎとして生まれて後継ぎを作るために生きているようなもので、その様子を滑稽に描いたのが、星新一の「殿さまの日」という短編です。同名の文庫本には江戸時代の侍や庶民を描いたコミカルなショートショートが揃っていて楽しめます。ちなみに個人的なお勧めは「紙の城」ですね。泰平の世が続く中で過剰に進んだ官僚化・定式化を面白さ重視で皮肉った内容とも受け取れますが、まさに星新一らしさが時代物でも見受けられる作品です。
それはともかく藩主・殿様は果たして憧れの存在になりうるか、というとなってみたいとは思えません。自由が無いということはなかなか現代人には想像できないかも知れませんが、あえて一つだけ具体例を出して見ましょう。
食事の際に必ず、毒味役のオッサンが自分のお膳に並んだ料理を全て少しずつ食べて、毒(遅効性も含めて)が無いことを確かめてから、もはや冷めてしまった料理を食べることを強制されたら、現代の日本人ならそれだけで嫌と思うのではないでしょうか?
ローソンで買ったからあげクンも、吉野家で食べる牛丼も、自宅で作ったチキンラーメンも、必ずオッサンが毒味してからでないと食べられないとかもはや嫌がらせレベルです。
もちろんこんな架空の話をしてもしょうがないのですが、結局は社会的に上の存在だからと言って、わがまま放題に振るえる場合と振るえない場合があります。江戸時代の大名なんかはその典型です。今の世の中では大企業の社長や政治家も「好き勝手には出来ないんだ!」と主張したいかも知れませんが、江戸時代の藩主よりはよっぽど自由でしょう。そんなことが言えるのはおそらく皇室の一部の方々くらいでしょう。もちろん本当に主張すると日本社会も政治も大混乱に陥るので仰らないでしょうけれど。
今は時代的にほとんど全ての人がそれなりの自由を享受出来るようになりました。政治家にしろ社長にしろ、後先考えずに辞めようと思えば辞められます。憧れの存在がどんなものでも大変なものであるのは間違いないですが、憧れる自由があるのと同様に、憧れられる自由もあり、憧れの存在から下りる自由もある世の中になったのは良いことでしょう。