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複数の宗教が共存できる場合と出来ない場合

トルコはイスタンブールにあるアヤソフィアという博物館は、もともとは東ローマ帝国時代のキリスト教としての協会だったのですが、それがオスマン帝国時代にイスラム教のモスクとして改築、利用されて、さらに第一次世界大戦後に成立したトルコ共和国の世俗主義に則って特定の宗教の建物とせずに博物館として公開されてきました。

それが先月、トルコのエルドアン大統領によってアヤソフィアをモスクとして復活させることになりました。当然ながらキリスト教関係者、欧米各国は批判していますが、トルコ国内でも世俗主義がないがしろにされることに対する批判や不安も起こっているようです。

トルコの世俗主義はトルコが近代化していくために必要だった思想ですし、それがエルドアン時代にどんどん潰されているような傾向があるのは、トルコのイスラム主義が強くなり、それが社会や民衆への抑圧につながるかも知れないという恐れにつながっているのでしょう。

一つの宗教的な施設が複数の宗教に利用された歴史があるというのはアヤソフィアだけの話ではありません。イスラム教からみたらイスラエルがエルサレムでやっていることはいいのか、と言いたくなるのかも知れません。

宗教の伝播に国境はありませんし、そもそも国境なんてものは歴史から見ればつい最近出来たものですので、宗教が広がるにつれて複数の宗教が一つの場所で栄えることは良くあることです。

日本においては仏教が6世紀、欽明天皇の時代に伝えられてから、7世紀にけりが付くまで蘇我氏と物部氏の争いが続きました。その後、鎮護国家の思想の元、国分寺や東大寺が作られ、さらに密教や末法思想、浄土信仰など少しずつ民衆に広がっていきました。

その一方で日本在来の信仰(宗教的要素が少ないものも含めて)が神社を通じて存在していましたが、神仏習合、本知垂迹説やその逆など神道と仏教をごっちゃにして祀る思想が生まれてきました。

神宮寺、鎮守社といった形ですが、複数の宗教が歴史的に入れ替わるのではなく同時代に両方を一箇所で祀るという思想です。

これが生まれた理由を単純に日本人が平和だからとか島国だから逃げ場が無いため融和的だというのも短絡的というか無理があります。本当に平和だったら日吉神社の神輿を延暦寺の僧兵が担いで強訴を行って朝廷や貴族を脅迫したりしないでしょうし。第一、16世紀から17世紀においてはキリスト教が大々的に弾圧されています。近代で言えば明治時代の神仏分離、廃仏毀釈運動がありましたが、今でも神宮寺などは残っていますし、今生きている日本人にとっても変な気持ちにはならない施設です。

日本における仏教の受容と神道との習合、トルコ(コンスタンティノープル、イスタンブール)におけるキリスト教とイスラム教の関係は全く異なります。多神教に多神教が加わるのと、一神教に一神教が加わるのとでは反応が異なるのかも知れません。

中国でも仏教が入って来て在来信仰である道教が宗教化しましたが、仏教に道教の思想が入ったりもしましたので、やはり多神教+多神教だと受容しやすいのでしょうか。もちろん、中国でも三武一宗の法難と言われたような仏教弾圧は何度もありましたが、仏教自体を否定するのではなく、兵士確保や課税のためでした。

ともかく、トルコにおけるイスラム化の流れは、少なくともエルドアンが大統領である限りは変わらないでしょう。世俗主義・政教分離が劣勢に立っているのをエルドアン個人に帰すのも無理な話です。一応は、選挙でイスタンブール市長から大統領になったわけですし。国民の大多数を占めるイスラム教徒の不安や願望が彼を独裁者たらしめているとも言えます。世俗主義を復活させるには、トルコ国民とエルドアンの間にくさびを打つような対策しかないと思いますが、キリスト教側からの批判だけではかえって両者の結束を強めてしまうのではないかと思います。

ちなみに、イスラム教のシェアが少ないインドではこんなことも起きています。

モスク跡地にヒンドゥー教寺院を建てるインド
https://mainichi.jp/articles/20200808/ddm/007/030/074000c

イスラム教が常に強者として他宗教を虐げているわけではない証拠でもあります。インドだけではなく、ミャンマーにおけるロヒンギャ族や中国におけるウイグル族もそうですよね。結局、地域とシェアと個別の状況によって変わるといってしまうとそれまでですが。


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