ベタな王道あってこそ
感情を素直に真正面から表に出すのがかっこ悪いと思うときもあれば、それがかえって良いと思う時もあります。同じ人の思考回路の中でも、時と場合によって異なるでしょうし、その人の人生の時期・年齢によっても変化があるでしょう。
個人だけではなく、世間の流行だって時代ごとに変わっていきます。感情表現を抑えたクールさが良いとされることもあれば、素直に激しさを表出するものこそ尊いとされることもあります。
冷静と情熱は入れ替わりながら混ざりながら展開されますが、ベタな表現、王道とも言われる良くあるパターンというのは、無くならないからこそ王道であり、無くなってしまうと守・破・離の最初の段階も生まれません。
年を取ってくると、ややこしくひねったり、巧妙に仕組まれたり、裏を行ったり、練りに練っているようなものよりも、ベタなもので良いじゃないかと思うようになってきました。
ベタなエンディングや展開でもそれはそれで価値があるものであり、ベタがあってこそそれ以外のものが存在得ます。
もともと冷たい印象のあるSFにベタベタのセンチメンタリズムを持ち込んだのがレイ・ブラッドベリだと、星新一のエッセイで読んだ記憶があります。ベタ=王道を新ジャンルにも適用させるというアイデアを褒めた格好だったと思います。
かつて、小泉元首相が総理在任中に、大相撲で復活の優勝を遂げた貴乃花に
「感動した!」
と言って流行語になりました。言葉を尽くしたり技術や分析をしたりするよりも、自分の気持ちを素直に出すというのは、表現の王道のど真ん中でしょう。
標準、スタンダード、王道、オーソドックスと色々言いますが、オーソドックスとは元々、正統派や正教を意味する言葉でした。
正統があれば異端があります。そこで戦争が起きたらダメですが、正統や王道を外して考えることはクリエイティブには必須です。定石を覚えなければ定石を相手に戦えません。
ただ、受け取る側であるコンテンツの消費者はそこまで考えなくても良いですよね。とにかく楽しめて満足できればいいわけで、その上でアレコレ批評したりするのはもちろん好き勝手すればいいものです。
ベタな王道が批判されるとしたら、ベタしか認めないような、王道のラインから外れるものを認めない狭量な場合でしょう。
正統だって異端があってこそ中身をアップデートできます。宗教改革によるカトリック批判に対して反宗教改革の動きが出てきて、カトリックの教会における腐敗が多少は軽減したはずです。
結局、王道も邪道も、ベタもシュールも相互補完的な関係でしかありません。作り手は悩みまくる難問ですが、読む側・見る側・聞く側は間口を広げて楽しめた方がとりあえずは良いですよね。