鑑賞コラム◆映画『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』
注)あらすじ解説の中に多少のネタバレを含みます(20%ほど)
ヴァイオリンという楽器は、謎めいていてほんとうに不思議な存在だ。そして、物語にとっては最高の小道具であり相棒である。
というわけで映画『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』を観てきた。監督は『レッド・バイオリン』のフランソワ・ジラールだ。
第二次大戦中のロンドン。音楽に理解を示すある裕福な家に、一人のポーランド系ユダヤ人の少年が引き取られてきた。少年の名はドヴィドル。類まれなヴァイオリンの才能を見出され、家族と別れ一人でやって来たのだ。引き取り先には同い年の少年マーティンがいた。
家族構成も境遇も、人種や宗教も何もかも違う。野性的で直感的、鼻っ柱の強いドヴィドルと、都会育ちの平均的な秀才であるマーティン。二人は最初こそ反目しあったものの、やがて良き友人になる。それは兄弟のようでもあり、練習嫌いのヴァイオリニストと、それを見張るピアニストといった関係でもあった。そしていつか、新人ヴァイオリニストとプロデューサー兼マネージャーの関係になっていった。
ある夜、満を持してやってきたドヴィドルのデビュー・コンサートに事件は起こる。リハーサルを終えたドヴィドルが本番直前姿を消したのだ。マーティンと彼を育ててきた養父は、失意のまま時を過ごすことになった。
ドヴィドル失踪の謎はわからぬまま、35年の時が過ぎた。しかし、ある小さな田舎町で、ドヴィドルの面影を感じさせるヴァイオリスト志望の少年を見つけたマーティンは、積年の想いを込めて猛然と、ドヴィドルを探し出すべく動き出すのであった。ツテにツテをたぐり寄せ、血眼になって探すうちに、彼がマーティンには決して見せなかった側面を知ることになる。そしてついに明かされる「あの日」のこと。ドヴィドルはなぜ姿を消したのか。そして理由を知ったマーティンは彼の言い分を受け入れられるのか――
ネタバレ的なことをいえば、ドヴィドルは見つかる。
驚くべき長年の真実も明かされる。
けれどそれより大切なことは、失踪後のドヴィドルの変化を受け入れられるか否か、ということなのだ。ここが苦しい。これはマーティンだけでなく、私たちにもむけられた問いだ。ドヴィドルの選択したことを、果たして我々は受容できるのか。これが試されているのだ。
ドヴィドルの人生の選択に、大きく関わる考え方の伏線になっている重要なシーンがある。まだ少年だった二人が、爆撃されたロンドンの瓦礫の街を歩くシーンである。ダイニングに座ったまま、壁の下敷きになった女性の遺体に涙を流すマーティン。目の前で息絶えている見ず知らずの女性に同情するマーティンを見て、ドヴィドルが一蹴する。
「ポーランドでは、毎日多くの人が殺されている。なのに彼らは単なる数でしかない。今ぼくたちの目の前にいるこの死体に君が同情するのであれば、自分の見えないところで多くの人が死んでいることを、どう考えるのか」
これが、失踪後のドヴィドルの人生を暗示しているのである。
1998年の『レッド・バイオリン』では、ヴァイオリンという楽器がある種、不死身のシンボルとして、ヴァンパイア的に描かれた。世代を超え人々の間で生き延びる「ひとつの人格」。ある時は無限の霊感を与え、ある時は優男のエゴをあぶり出した。そして中国文革時代、抑圧の中で少年の傍らに寄り添うように在ったヴァイオリンは、秘密の友達のようだった。ヴァイオリンという楽器にある、深い「業」のようなものを感じた映画だった。
果たして今回、ヴァイオリンは「個のシンボル」として登場する。ドヴィドルはヴァイオリンに懸けていた。マーティンもそんな彼に懸けた。それは、名もなき人間を「何者か」にしてくれる頼みの綱だった。占領下のポーランドで、ドヴィドルだけが優遇されたのもヴァイオリンのおかげだった。対してドヴィドルの家族は名もなき人々だった。彼らは収容所送りになった。しかし最終的にヴィドルが選んだのは、大河の一滴として生まれ、死んでいくことだった。マーティンは憤る。
「これだけの才能がありながら、そんなことは許さない」
そうなのだろうか。あり余る才能を無駄死にさせることは、人として許されないことなのか。逆に、何者かになれなかった、ならなかった者は、単なる「数」として、無機質にカウントされても許される人々なのだろうか。
というのも、individualな存在、個人という価値観の中で何の疑問もなく育ってきたマーティンにとっては、ドヴィドルの考え方は受け入れられないものだったからだ。
『レッド・バイオリン』で示されたヴァイオリンの個別性・特別性は、ここでは真逆に触れる。名も無き匿名の存在、歴史の中へ名を遺すことなく紛れて消える存在へと還っていくための、気づきをもたらす道具として描かれている。
この映画は、悲しい歴史を持つユダヤ人コミュニティならではの考え方や民族意識に彩られている。深いルーツの末に生まれてきた自分、ドヴィドルという存在の持つ「根深いストーリー」がある。しかしそれは、同時にユダヤの問題だけではない。
コロナ禍で、毎日の感染者「数」を知らされる。数の大小で一喜一憂する。しかし解像度を高くして見れば、決して大河の一滴のような匿名の存在ではない。ルーツをつなぐための「大切な誰か」であることに変わりないのだ。現代の私たちにも問われるべき鋭い人間観への問いを、この映画でフランソワ・ジラール監督は突きつけているのかもしれない。
また、知られざるユダヤ文化と音楽の魅力にも触れることができる。ドヴィドルが「たとえ名も無き者になろうとも、この旋律を守っていく」と決めた、耳に残る嘆きの旋律は、ぜひとも聴いてもらいたいところである。
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