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風(おと)と官能 【第3回】『金閣寺』と『アマデウス』 ~彼らはなぜ美をこじらせた挙句、台無しにしてしまったのか~

ある年の瀬の午後。東京・K市の老舗喫茶室の地下席で。私は背中を丸め、熱いココアをすすりながら、とある会の開始を待っていた。

隣には今日誘ってくれた友人がいるが、ガタつくテーブルを3つ繋げ、ぎゅう詰めに座っている他の10人のうち、私達以外は全て老紳士だった。しかも互いに顔見知りらしい。そして誰もが三島由紀夫の『金閣寺』の文庫本を携えている。来た順で奥から座り私がちょうど真ん中だ。これはきっと会の終わりまで中座できない。

時勢により全員マスクで顔の上しかわからない。老紳士達は防寒第一で、黒や紺のダウンにマフラー姿だ。ざっくり編んだニット帽を被ったままの人もいる。しかし彼らの目の奥には、これから宝探しに出る少年たちのような光が宿っていた。それがあからさまでないように、大人の佇まいに巧みに隠してはいるが。

今日は『金閣寺』の読書会だ。三島はあまり好きじゃないけれど『金閣寺』は別だ。美そのものと全面対峙できる貴重な機会だ。私こそ心ときめいているじゃないか。年齢こそ違えど誰もが同じスタート地点に集まっている。そしてまもなく始まる精神の旅への離陸を、いまかいまかと楽しみに待っているところだ。ちなみに友人は、この中の1人と以前、仕事上の付き合いがあったのだという。互いに純文学マニアだということがわかり、3年前からこの読書会に参加させてもらっていると。今日、私は「あなたの好きな『金閣寺』だから」ということで、見知らぬ人たちの輪に混ぜてもらったというわけだ。

「いやー難しいね」
「まあミシマはね・・・」
「もう一度読みたかったけど、最近忙しくてさ」
「師走だもん、しょうがないさ」
読書会(だけじゃなく日本社会)にありがちな、男2人のけん制タイム。とはいえ、すぐ隣を陣取るところを見るに、もともと気が合うのだろう。

最奥にいる2人は、白磁器のコーヒーカップに手を伸ばしつつ、手持ち無沙汰にページをパラパラ繰っている。うまく暖房が行き届かないのか、寒そうに腕組みしながら話し始めた。
「しかし、こんなこと普通します?」
「放火ね。しかも動機が”美への嫉妬”でしょ?」
「聞いたことないよね」
「実際の犯人もそう言ったの?」
「いや、違う。これは三島の創作」
「また高尚な芸術論だ」
「僕、キホン芸術はわからないってスタンスで生きてる」
「変にわかるって言う奴より正直でいいよ」
「だから今日は皆の意見を聞くのが楽しみなの」
「うん。でも三島はよくこれを小説にしたよ」
「こんなことテーマにした話もないわな」

・・・ざわつき。

うわさ。

人々の囁き声。

ああ、あの作品の始まりみたいだ。

もうひとつの、
美への嫉妬が動機の殺人の物語

「あの…あります」

思わずココアを中断した。
心の中、私は喫茶室の中心で高らかに叫ぶ。

ありますよ、

「アマデウスが!」

音楽が、鳴り響く。

とまあ、こんなある日の読書会シーンから初めてしまいました。ひとしきり「アマデウス」のオープニングに使われた交響曲第25番第1楽章が切り裂くように駆け巡ったところで、さて本題に。

今日は「美への嫉妬」しかも、誰かの美しさとかではない美そのものへの嫉妬という、あまり聞いたことのない動機により身を持ち崩す主人公を描いた東西2つの物語、三島由紀夫の『金閣寺』そしてペーター・シェーファーの『アマデウス』同じキーワードから同時紹介していきたいと思います。

①あらすじ

三島由紀夫の『金閣寺』は、1950年(昭和25年)7月2日未明に起こった「金閣寺放火事件」をもとに、犯人・溝口(実際の犯人は当時金閣寺の見習い僧侶で大学生の林承賢)が犯行に至るまでの経緯を追った小説です。

福井のしがない雇われ僧侶のもとに生まれた溝口は「金閣寺ほど美しい寺はない」と繰り返す父の言葉を聞いて育ち、漠然と「金閣=この世の最高美」という価値観を形成していきました。溝口は美に憧れていました。それというのも、自身が元来の吃音症だったからです。吃ってしまうことで周囲とのコミュニケーションに「嫌な時差」を生じさせてしまう醜い自分。言いたいことが他者に滑らかに伝わらないという生きづらさは、まっすぐな気持ちをひねくれさせ、思いを誰にも共有せずに内に籠らせていくようになります。

やがて10代半ば、縁あって金閣の見習い僧侶になった溝口。しかし彼は(傍からみれば)こんなラッキーな境遇に感謝するどころか、さらに「最高に美しい金閣 VS 最高に醜い自分」という対立構造を心の中に作り上げます。もはやこれが彼の生きるモチベーションでした。その頑固なまでのこだわりは、友人の助言すら耳に入りません。彼にとっては女性などは「不可解かつ恐るべき下等生物」です。自分(と他者)への嫌悪、僧侶として出世できるかという将来への不安。その頂きにそびえ立つ「金閣」という圧倒的存在。彼は金閣に焦りやプレッシャーを感じるようになります。そしてついに、こんな想念に取り憑かれ始めます。「金閣を焼かねばならぬ」

一方の『アマデウス』、こちらはイギリスの劇作家ペーター・シェーファーによって書かれた舞台脚本です。何といっても1984年の映画化が、この作品を決定的にメジャーなものにしました。

18世紀、神聖ローマ帝国の宮廷作曲家アントニオ・サリエリ。イタリアの片田舎で育ったサリエリは密かに音楽を志し、幼少期から活躍していた同年代の天才、モーツァルトに憧れていました。「神さま。あなたに全てを捧げますから、僕を世界一の作曲家にしてください」

不思議とラッキーなことが重なってくれました。田舎の少年サリエリは音楽の才能を見い出され、瞬く間にウイーンの宮廷作曲家になったのです。しかしモーツァルトと出会った時、彼の順調な人生が狂い始めます。憧れのモーツァルトは幼稚で下品、最悪極まりない人物だったのです。才能への嫉妬と彼への憎悪を募らせたサリエリ。彼はモーツァルトと神を呪います。「これで決まった、あんた(神)は敵だ。私はあんたに復讐する。あんたの息のかかったアイツを滅ぼすのだ」(※実際はサリエリはモーツァルトを暗殺(毒殺)した記録はなく、今では噂や創作上のネタだといわれています)

「溝口にとって金閣は不動の存在なんだな」
「実際の金閣がどうだっていうより、彼の中で”理想化”してるから、もう別物になってんだ」
「これは絶対神的な考え方じゃないの?」
「たしかに。僧侶なのに仏教ぽくないな」
「溝口の価値観て最初から一神教みたいなとこない?」
「父親の言うことを絶対視してるし」
「父=神か。なるほど」
「それに裏切られると今度は猛烈に憎みだす」
「完全に愛と憎しみは紙一重の世界だよ」

その時だ。奥の2人のうちの1人が、あいかわらず腕を組みながらつぶやいた。
「そもそも金閣って、そんな美しいかなあ」

「それ言っちゃうか」
「わかる。俺は銀閣の方が好きだ」
「僕も」
「金閣って、マッチ箱みたいじゃない?」
「まあ、整いすぎてるね」
「銀閣の方が風情あるよ?」
「ワビサビとかさ。日本に向いてる」
「しかも溝口の頃は金色じゃなかったでしょ」
「そう!木造の3段だったんだ」
「現在の金閣は塗りなおしたからね」
「溝口は心の中でどう見てたんだろうね」
「”黄金”であってほしかったんだろうね」

②美とは快楽であり苦痛である

「金閣は美しい」——そのことを、溝口は幼い頃から父にさんざん聞かされて育ちましが、実ははじめて金閣を生で見たとき、それほど感動しなかったのです。本来なら「僕はそれほど・・・」で済む話。おそらく期待値が異常に高かっただけ。けれど溝口は、そんな自分の感覚を信じるより、父の言うことを信じる姿勢を崩しません。けれど、美しいと思えば思うほど、自分のエゴ、弱さ、カッコ悪さ、さらには金閣に仕える僧侶達の俗っぽさが目につき苛立つのです。

対して『アマデウス』。溝口とは違ってサリエリは「これは自分の中で美しいことにして」とは思ってはいません。心底モーツァルトの音楽を美しいと思っている。皇帝の姪っ子のピアノ教師を選ぶコンペのため、モーツァルトの妻が持ってきた楽譜を見たサリエリ。楽譜をひとめ見るや、脳天撃ち抜かれるほどの衝撃に揺さぶられます。呼吸が乱れて息が苦しい。思わず脳イキしそうになるほどの美しさ。もう、快というより苦痛でした。ここまでまざまざと下品なあの若者の才能を見せつけられるとは。サリエリにとってモーツァルトの音楽は脅威となりました。彼は無言で楽譜を彼女に突き返しました。圧倒的な美を前にして、そうするしか術がなかったのです。

社会的にはサリエリの方が成功しています。モーツァルトは定職につけないフリーランス。自分のポストを天才モーツァルトはたやすく奪ってしまう?――いえ全く。自分に追いつくにはモーツァルトはあまりに遠い。それより怖いのは、彼から音楽が生み出される限り、自分の心が死ぬまで乱され続けることです。美しい、だからこそ耐えられないのです。しかもその音楽を作る人間は自己中で傲慢な、人として極力関わりたくないタイプ。(これは溝口が高僧の俗っぽい振る舞いに幻滅したのと同じ)そもそも、なぜこの音楽を生み出せるのが「自分ではなくて彼なのか」サリエリはこの理不尽さ、残酷さがどうしても納得いかない。溝口と同じく、憧れと憎しみという2つの感情に葛藤しているのです。

読書会はさらに白熱し、奥へ奥へと踏み込んでいきます。
「ちょっと皆さんに質問したいな。どうして溝口は金閣を燃やしたのか」
「放火を選んだかってこと?」
「例えばさ、ガンガンに打ち壊せばいいじゃん」
「1人でやるんだよ?疲れるよ」
「そういう問題か?」
「それに残骸が残るよ」
「醜いもんね」
「焼けば灰になって消え去ってくれる」
「火ってそれだけで美しいからね。焚火とかご覧なさいよ。俺、火を見るの大好きだ」
「今それ言うとコワいな」
「じゃ火をつけることで、金閣の美がさらに増すってことだな」
「溝口がそこまで考えたかわからないけど」
「たしかに「金閣を焼かねばならぬ」って言ってるよね」
「何ページ?」
「243ページ」

③美は崩壊寸前に最高潮に達する

どうやら「キレイさ」や「端正さ」と「美」は、成り立ちが全く違うようです。黄金比というのがありますが、キレイさはある程度は数値化できる。けれど美は「これは美しい」と感じる人の持つ主観によってつくられたストーリーが含まれた包括的なものなののです。しかも良いものだけじゃなくエゴや期待といった、毒の部分も織り込まれている。だから魅了するけれど苦痛なのです。つまり美は、複雑に絡み合った「パッケージ」なのです。だから相反する感情に同時に引き裂かれ「こじらせて」しまう。そして最後には、やるかやられるか、生きるか死ぬか、痴話喧嘩のようなことになっていく。

「美を滅ぼすか、自分が死ぬか」

『金閣寺』は放火という手段に出ました。そして『アマデウス』は、モーツァルトを精神的に追い詰め弱体化させていきます。2つの物語のクライマックス、美が崩壊する寸前。それは最高潮に美しい瞬間です。

金閣寺は赤々と燃え盛り、溝口の頭の中で描いていた「最高の金閣」の姿に。現実でいくら眺めても美しいと思えなかった。本当に美しいのは、美しいと思える自分の方だと思っていたくらいなのに、炎上する金閣を見て溝口はとても「満足」するのです。自分が滅ぼしたこと(勝った)と、やはり金閣は俺と違ってサイコーだ(負けた)ということ。ついに満願成就、溝口は自らも火傷を負いながら、火の手のあがる金閣から命からがら逃げてきました。そして裏山から全焼するさまを眺め、煙草を一服ふかすのです。

『アマデウス』でも、これと同じことが起こります。(表向きには友好的を装った)サリエリの妨害で、モーツァルトは仕事のクチや出世を絶たれ、家族を抱えて借金にあえぎます。そこへ黒衣の男が「高額を払う。レクイエム(鎮魂ミサ曲)を書け」と訪ねてきました。実はそれは、亡くなったモーツァルトの父親に似せたサリエリの変装。彼はモーツァルトに匿名でレクイエムを書かせた後どうにかして葬り去り、自分の曲として発表しようと思いついたのです。(いつかのゴーストライター事件みたいな)

モーツァルトは、黒衣の男がサリエリだということに気づきません。それどころか、得体の知れない謎めいた人物を恐れるあまり、レクイエムの完成は遅くなり、急速に病んでいきます。こうなるとマズイのはサリエリの方。もしここでモーツァルトが死んでしまったら、注文中のレクイエムが未完のままになってしまう。サリエリは衰弱しきったモーツァルトのベッドサイドで「私が書き取るから、レクイエムの続きを書こう」と申し出てしまいます。

しかしサリエリは、そこでまさに「神の業」を見ます。ベットに臥せったまま、頭の中で音楽を組み立て記譜を指示するモーツァルト。その彼の頭上には間違いなく、自分にはいない「神」がいる。魂が肉体から離れようとしているこの瞬間にも、神はこの男に天の息吹を送り続けているのだというーーしかしもはや、誰がどうした、ということなど、どうでもよく思えてきました。なぜならその音楽はやはり完璧に美しかったから。モーツァルトはサリエリの目の前で途中で力尽きました。(レクイエムは未完でしたが)サリエリは勝ったのです。しかし音楽には完敗するのでした。

溝口とサリエリ、2人の戦いはどちらも「1勝1敗」です。滅ぼしてしまえば苦しまずにすむ。けれどその美は永遠に消滅する。どちらかひとつしか叶わない夢、それが美の宿命。

「とにかく犯罪だよ。彼のしたことは、犯罪」
「そりゃそうだ」
「でも本の帯に「犯罪小説にして青春小説」ってある。だからさ・・・」
「誰もが持ちうる一時の感情なんだよな」
「自分を特別だと思いたかったんだろう」
「悪い方の特別でもいいから」
「歪んだ自尊心だよ」
「老師にも、叱ってほしい、嫌ってほしいみたいなフシがあって」
「結局、試したり甘えたりしてるんだよね」
「・・・未熟だなあ、なんというか」
「そこなんでしょうね」
「逆に足の悪い柏木は、それを利用して”生き抜こう”としてるよね」
「溝口にはそういう図々しさがない。かわいそうだよ、ある意味。まして吃音は目に見えにくい障害だから」
「柏木は、金閣なんかにこだわるのはよせと、溝口にずっと訴えかけていたような気がするな」
「そう、柏木は音楽が好きだった」
「音楽は目に見えない時間芸術だ。彼はそこが気にいっていた」
「こだわる”モノ”がない」
「建築物とか絵画はモノとして残るから」
「執着すると偶像崇拝になっちゃう」
「そういえば、三島由紀夫は音楽は?」
「からっきし、でしたね」
「彼も視覚の美にこだわってたよね」
「ボディビルに夢中になった」
「でも結局、ああいう死に方をして・・・」
「三島って、溝口と似てますね」
「溝口は、もろ三島の影の化身でしょう」
「・・・」

③なんでもいい、一番になりたい!という病

溝口のように「金閣=モノ」なら執着が生まれるが、音楽ならそうはならない――『アマデウス』を知っている今、そんなことはないということは理解できると思います。形がないからこそ矛先が「作者」に向かうのです。芸術は生命ある存在ではありません。しかし時として「美しい容姿を持つ人」よりも、強烈な傷跡を人に残します。

最後に、この2人に共通する部分。それは「自分がいかにラッキーな人間かということすら、すっかり忘れるほどにラッキーだということ」でしょう。福井のしがない雇われ僧侶の子が、金閣に住み込みながら大学まで行かせてもらえるのです。そしてサリエリも。(映画では)音楽に理解のない父親がどうでもいい理由で亡くなって、あれよあれよという間にウイーンでヨーゼフ2世の隣にいる。逆にサリエリを羨ましく見ていたのはモーツァルトの方なのです。

それでも2人は「一番」にこだわる。
ひとりは、犯罪でも何でもいいから大仕事をやってのけたと感慨にふける。
そしてもうひとりは、凡庸な人間どもの中で一番神に近い「代表者」は私だと(愚民どもに)高らかに宣言し、赦しを与えるのです。

確かな美はそこにある。けれど、それをこじらせて自ら台無しにするのは美のせいではなく、やはり「認知の歪み」からおきた人の過ち――

ふと時計を見た。
あっという間に2時間たっている。
「そろそろ閉会にしようか。ひとことずつ感想を言ってください」
中座どころか議論に夢中だった。
最後に、みんなで「何かに」拍手をして、読書会はお開きになった。

入口に近い人から席を立ち始め、のそのそとレジに向かっていく。
「いやいや・・・難しいですな、文学は」
「来年はどうする?」
「2月ごろにすっか」
「何の本でいくかなあ?」
「また追って決めようぜ」

ひとりずつ、自分の頼んだものを申告して会計を済ませる。宝探しの絆が徐々にほどけていく。地下の暗がりから地上へ出たモグラよろしく、曇っているのに外が眩しい。

「今日は楽しかったよ」
「うん。よいお年を」

私たちが駅に向かって歩き出そうすると、主催者の男性が声をかけてきた。紺のダウンの袖口から覗いた白く骨ばった指には、凝ったデザインで縁取られた貴族のような翡翠の指輪があった。
「今日はありがとう。もっといろんな世代の人が来てくれるといいんだが」
「こちらこそ、ありがとうございます!」
そう言って別れたが、私はもう、さっきまでいた世界に還りたくなっている。

駅に向かう者、バスターミナルに向かう者。三々五々、それぞれの日常に戻ってゆく。してきたばかりの時空旅行が、まだ頭をフワフワとさせている。私はマフラーを巻きなおした。コートのボタンを一番上まで留めて人波に混じる。こんな時にぴったりな音楽は、これしかない。
『アマデウス』のエンドロール、
ピアノ協奏曲第20番、第2楽章。

(終わり)


※このエッセイは、実際の読書会から着想を得たフィクションです。

【次回予告・予定】
Impossible Ensemble
〜あの日、果たされなかった演奏会の思い出〜


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