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膜のなかからきみに出会うまで #01

どうして君は生まれてきたと思う?問いを重ねるうちに根源的な問いにたどり着いた。人より哲学に詳しかった部活の元同期の口ぶりを思い出す。酒が入るとド真面目な顔つきで思考実験を繰り広げようとする厄介な奴だが、その価値があるような、ないような夜更けの時間が、私は嫌いではなかった。
でもここは深夜の居酒屋ではない。
私は調整を済ませたばかりの万年筆をゆるく握って、朝方のカフェの端っこで肘をついていた。絶賛転職活動中。履歴書に丁寧な字で経歴を書き連ねながら、自分の市場価値について考える。ぐるぐると考えを巡らせる悪い癖が災いして、ついに人生の意味を考えるに至ってしまった。いけない、これではただの現実逃避だ。手を止め、がらりと空いたカフェの店内を見渡す。入口近くのカウンターで会計を済ませて出ていく女性二人組を何となく見送ると、レジのすぐ横に坐っている緑のものと目が合った。
正確には「目が合った」わけではない。それは小さな観葉植物だった。だが、不自然なほどに葉が端正にこちらを向いており、数メートル先にいるのに不思議と存在感を感じる。思わず「あ、どうも」と頭を下げてしまいそうになった。はっとしてその植物を視界から逸らし、テーブルに向き直るが、少し顔を上げると視線の先にその植物がいる。一度気になってしまうと、じっと見られているようでなんだか集中できなくなってしまった。今日はこのへんで切り上げよう。コーヒー一杯の金額を記した伝票を持って席を立ち、件の植物がいるレジカウンターへ向かった。
「520円になります」それはレジカウンターの横で少し背が低い棚に並べられており、茶色いカードに数字が書かれているところを見るに販売されているらしかった。まだ、先ほどまで私が坐っていた席のあたりを向いている。近くで見ると威圧感もなく、値札のせいか、むしろ少し萎縮して見えた。『買ってくれたら嬉しいけど、自分はここのカフェの雰囲気作りに一役買っているんで、それなりに満足してやってます』といったところか。私が植物から目を離さないまま小銭を探っているものだから、店員さんが気を利かせて「その子、結構育てやすいですよ。プラントお好きなんですか?」なんて話題を振る。あ、いや、と笑ってごまかしつつ、プラント、と頭の中で言葉を反芻する。「植物」じゃだめなのか、と思いながらぴったりの小銭で支払いを済ませ、足早に出口へ向かった。

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あ、やばい、今こっちを見た。完全に。
何がやばいと言うのか、と兄さんはきっと諭してくるだろう。でも、自分を観察してくる人間は数多くいれど、自分が「観察していた」相手に「気づかれる」ことはそうそうなかったのだ。
けれど僕は動くことができないし(即座には)、兄さんは先週ついに買い手がみつかって、満足そうにここを出ていったから、この出来事について語ることはできなさそうだ。
僕らはゆっくりと生育するが、案外、繊細な時間軸のなかで生きている。
ひっきりなしに人が行き交い、BGMや話し声や食器の立てる音が絶えない空間にいても、割と退屈はする。今日はコーヒー一杯で3時間と居座る肝の据わった女性を観察していた。朝一で入店してから真剣そのもの、勢いよくペンを走らせていたかと思うと、眉間にシワが寄って悩ましげな顔になり、終いには間抜けな表情で空中を見つめて一時停止した。コロコロ状態が変わるのがおもしろく、次は何かと思っていたら、不意に視界に僕をとらえて怪訝な様子を示したのだ。僕は脈が速くなるのを感じたが、採取でもされないかぎり人間に気づかれることはないので、努めて植物然とした佇まいでなんとか切り抜けた。
翌週、僕は引っ越し先がきまった。その日はなんだかとても眠たく、葉を遊ばせておいてこっそり無意識のなかに隠れていた(要は、上手に居眠りをしていたということだ)。いつもと違う日差しがチリチリと葉を刺し、目を覚ましたときには、すでに買い手の部屋のなかにいた。しまった、兄さんがあんなに「自分を買ってもらえる瞬間が、僕たちの生にとって、一番幸福な瞬間だ」と説いていたのに。僕は人生で一番コウフクな瞬間を逃してしまったのか…。実際のところ、コウフクという概念にあまり心当たりがなかったので、気落ちもしなかったのだが。
部屋は西日がよく当たる温かい環境で、生長にはおそらく問題ないだろうと思った。あとは、あまりに退屈して僕の精神が擦り減らないかどうか…。そのとき、声が近づいてきた。「店員さんのトークにつられて、お前を買うことにしちゃったよ。幸せを呼ぶ木、なんて分かりやすくいいこと言うんだもんなあ」狭くなった室内で響く人間の声は、やけに近くに感じてくすぐったかった。それより僕、もしかして話しかけられてる?「お前の幹ってなんか独特だよね。植物なのに、人間くさい、はは」そう話す彼女の顔には見覚えがあった。新しい環境は明るさも温度も何もかも違ったが、彼女が手に持つマグカップから漂う香りは懐かしく、不思議と居心地が良かった。

続く

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