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普通を失いたくなかった【2000字のドラマ】

うだるような暑さの放課後だった。大学生にとっての放課後とは履修科目終わりを指すので(諸説あるが)、授業が2限で終わった日は12時半でも放課後。暑いわ、食堂は混んでるわ、昼休みのラッシュに乗り遅れるぶん損している気さえする。こんなネガティブな考えを巡らせてしまうのも暑さのせいだ。図書館に行って課題をしようか、家に帰ろうか…と迷いながら歩いているところ、「よっ」後ろから声をかけられた。振り向くより前に、私の右手側に自転車が止まり、パーカーにジャージ姿の男が立っていた。

「あー田中か、ちょうどよかった。ご飯一緒食べない?」

「うん、俺もそのつもりで声かけたけど。ちょうどよかったって何?なんか俺は宇佐美さんにとって便利な存在みたいで傷つく」

「そうだとしても、テスト前は私の課題、あんたが見るじゃん。あんたにとって私は便利な存在ってことでしょ。お互い様だね」

「まぁ、友達ってのは助け合うもんだから…」

そういって私達は食堂に入る。一人では入りづらい混雑した食堂も、二人だと難なく入れるのだ。私と田中は同じ学部のいわゆるクラスメイトで、よく授業が一緒になるのでテスト共同戦線を組んでいる。そのチームにはもう一名、ヒジリという奴がいて、毎週の課題も三人で分担してやればなかなか効率的に進められるので、妙に仲間意識が生まれているのだった。私はこのチームを、そして三人で過ごす時間を、なかなか気に入っていた。

「ヒジリは一緒じゃないの」「あー、あいつなんか通院とかで。体育は2回までは休んでも大丈夫だからって言ってた」「何だっけ、バスケ?」「そう。あいつ元バスケ部だから余裕こいてんだよ」「だろうね」バスケしてる姿、見たいなあ。とは声に出さない。田中に自分のことだと勘違いされても困るからだ。ヒジリは背が高く色白でひょろっとしていて、きっと他の男子の必死の防衛をよそ目に、数センチジャンプしただけで軽々とゴールに手が届くだろう。しかし彼は運動部に所属していない。可哀相なことに大学入学当初に自転車事故で派手に骨折し、リハビリのためスポーツを諦め、適当なサークルに入って2年生まで過ごしている。たいした動機もなく適当なサークルに入った私とは、同じようで全く違う。

「キノエさーん!ご飯すか!」背の小さい、田中と同じパーカーを着た女の子が話しかけに来た。「おす、おつかれ」と田中が気前よく返事をし、何言かやりとりをする。

田中は「甲」と書いて「きのえ」と読むのが本当の名前だ。珍しい名字で覚えにくいからと、本人自らタナカと呼ぶことを推奨している。なぜ田中なのか、なんて聞かなくても文字面で何となく分かるし、それを自分で呼ばせるのってちょっと恥ずかしくてダサくないか。と私は思うけど、彼は本名で人からイジられるのが嫌いらしい。できれば田中という偽名のまま過ごしたいそうだ。そこの後輩らしき女の子がなぜ本名で呼ぶのかはわからないが、まあサークルでは色々あるのだろう。他にも田中って名前の奴がいるとか。

そのとき私が、その後輩の女の子の着るパーカーに「田中」と名前が刺繍されているのに気づいていたら、きっと味噌汁を吹き出していただろう。あなたが田中ご本人様でしたか、と。幸いそれを知ったのは後のことだった。

「宇佐美さんは帰るの?俺は3限あるけど」味噌カツ丼とプリンを食べ終えた田中が言った。「うーん。図書館寄ってから帰ろうかな。こんな暇な日に限ってバイトのシフト入れてもらえないんだよね。授業詰まってる時は呼ばれるのにさ」「朝バイトにしたら?固定だから午後予定立てやすいし、健康的よ」「嫌だよ。私はあんたほどバイタリティに溢れてないから。ただでさえ運動部なのに朝から出勤とか、元気すぎ」「俺は活動してないと死ぬマグロだからね」

そんなやり取りをしながら食堂を出た。「じゃあ。お疲れ」と言って別れた後、なんとなく図書館下のコンビニに立ち寄る。お菓子でも買おうかな。

その時、店内にいるひょろ長い背の男に気がついて足が止まった。紙パックジュースの陳列を眺めてなぜか立ち尽くしている。

私は彼が何を選ぶのか分かっていた。考えるより先に口が出る。

「またミルクティー買ってんの?」

ヒジリが振り向いた。そしてへにゃりと顔を崩して笑い、「夏場は甘いものがより美味しくなるんだよ」と言った。「ふうん。冬もそうなんでしょ」「正解。冬はホット」

人が何を飲もうと自由なのに、私はわざわざ指摘する。私にとってそれは会話の糸口でしかない。普通に話しかければいいのに、つんけんした声の掛け方しかできないのだ。幸い、田中もヒジリも嫌な顔せず応じてくれる。田中は調子よく軽口を返してくるが、ヒジリは何を言われても、例え貶されたとしても、本当に可笑しそうに笑う。サンドバッグみたいな奴だ。

最近私は、その笑顔をモロに向けられると、上手く話せなくなる。

私達は図書館に入り、それぞれ静かに自習をした。授業のチャイムが鳴るまでの、妙に長い90分間。温いクーラーがかかり少しよどんだ空気の室内に、酸素不足になって居眠りする人がちらほらいる。私も例外ではなく、テキストが霞んでうとうとと眠りに落ちる。

暑さに大学が溶けていくような曖昧な夢を見ながら、私達三人のことを考える。ヒジリは起こしてくれるだろうか。メッセージだけ入れて授業に行くだろうか。私がこのままヒジリとうまく話せなくなったら、田中はどんな反応をするだろうか。三人でアイスを食べる放課後を、あと何回過ごせるだろうか。私は、この胸に芽生えてしまった痛みを、抑えたままやり過ごせる自信がない。押し殺しても痛むし、実らせようと期待するとともっと痛むのだ。私は三人の時間を失いたくなかったし、このまま普通の生活を続けていたかった。寝たふりを続ける私を見透かすように、ヒジリが声をかけた。「俺行くよ。代わりに田中置いてくわ」「置いてくって何だよ」


おわり

(8.27 タイトル少し触りました)

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