『世論』とメディアスタンス

「STAY HOME」の連休中、何となくテレビをつけていると、当然ながら新型コロナ関係の報道が続き、オンラインで参加するコメンテーターが政府の対応についていろいろと意見を述べている。

それぞれの立場や見識から意見を出されているのだが、「これだから政府はダメだ。もっとこういうことをすべきだ」という論調が多い。そうなると僕は一人の視聴者としての僕は段々とうんざりしてきて、テレビを消す。

僕はここで政府を支持しようという意図は全く無い。また、批判的(critical)に考えることは然るべきと考えている。

だが、批判的に考えた結果、政府を批判する(非難する)というスタンスがあまり好きではない。

結局のところ、外野にいてヤジを飛ばしているのと同じように見えてくるからだ。プレーヤーの立場に立って、自身の批判的意見について自ら実行者として責任を持てるかというと、おそらく無理だろう。

「ジャーナリズム」とは民主国家において、政府の透明性を保ち、国民が主権者として現実を正しく捉え、適切な意思決定をするうえで欠かせない機能である。

しかしながら、概念的にはそうなのだが、現実的にはこの「現実を正しく捉え」るということが不可能であることを認識しておかなくてはならない。

20世紀に活躍したアメリカのジャーナリストのウォルター・リップマン『世論』(岩波文庫、1987年)という本がある。

この中でリップマンは「疑似環境」「ステレオタイプ」という概念を提唱している。

現実の環境と人間の行動の間には頭の中に映っている環境のイメージが介在しており、人間の行動はこの環境のイメージ(=「疑似環境」)にたいする反応である。
イメージをつくる際に人間がある種の固定観念(=「ステレオタイプ」)をもつことによってイメージが左右される。

さらに、

ステレオタイプが確固としている場合、人々の関心はステレオタイプを支持するような事実に向い、それに矛盾する事実から離れやすいのである。
こうして合理的な意見形成の必須条件とされていた「客観的事実」は自明ではありえなくなった。

という。(以上、『世論(上)』「解説」より引用)

したがってさまざまな報道を見聞きするときに前提として自覚しておくべきことは、政府も、ジャーナリストも、学者も、また自分自身も、誰一人として完全な事実を知らないということである。それぞれの立場で見聞きした情報を元に、それぞれのステレオタイプに即した疑似環境が構成され、その中で考えて行動している。

このように考えると、テレビのコメンテーターに期待したいのは、政府批判やこうあるべきという持論の展開ではなく、それぞれの立場だからこそ見える政府見解において見落とされている観点を提示することだと思う。

解決策のアイデアを提示することもあって然るべきと思うが、そこでは自分自身も事実を全て知っているわけではなく、限定的な知識に基づく見解であるという節度を持っておくべきだろう。

先日参加したPRTable社主催のオンラインセミナー「#Withコロナ時代のPRについて話そう」の中で、スピーカーの一人の三浦崇宏さんが、
これからはメディアリテラシーではなくメディアスタンスだ
という発言をされていたのが印象的だった。

メディアから受け取る情報をどう取り扱うかという受動的な「リテラシー」だけではなく、自身や自身の知人も含めて情報の発信主体にもなるメディア環境の現代においては、多様なメディアとどのように向き合い、活用していくかという、自身のあり方を示す「スタンス」が重要であるという考えだ。

自分自身のメディアスタンスを考えるためにも、その前提として、マスコミに出演する人たちも、ソーシャルメディア上で影響力のある人も、また自分自身も、それぞれのステレオタイプに即した疑似環境に応じて考えているということを理解しておくべきだろう。

すなわち、それだけバイアスがかかっており、部分的な事実に基づく自分なりに真実を作りあげているにすぎず、多角的な事実とはかけ離れている可能性があることを自覚しておくべきである。

ソーシャルメディアは特にバイアスを加速させる傾向があることも同時にわきまえておく必要があるだろう。

さて、冒頭のテレビ報道に戻ると、一般の視聴者は、連日接する報道に批判や非難を求めているわけではないだろう。

それよりも、できる限り多角的に事実の断片を集め、自分たちに何ができるか、何に備えれば良いかを考えるヒントを求めているように思う。

そして何より、目標と希望を見出したい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?