香りを纏うきみとわたしのこと
床に転がっていたボディファンタジーのスプレーのこと、わたしはどう受け止めればいいかわからなかった。
「これなに?」
そう問えば、自分のものだということはわかっていたけれど。何とも言えない微妙なライン。男性が使わないこともない絶妙なボディスプレーだから、変に咎めるとめんどうなことになってしまう。そう思うと、何も言えなかった。何も言わなかった。
「落ちてるよ」
代わりに、そう言った。するときみは「ああ、」と言って、棚の上に置く。その棚のなかに、小さい化粧水とか乳液のボトル、メイク落としが入っていることも気づいていたけれど。まあ、元カノのものだと言われてしまえばそれまでなわけで。めんどうだった。何もかも。
大学生のわたしには、ミスディオールとかモンパリみたいな香水は少し高価で、手が出しづらかった。それならスキンケアや下地にお金をかけた方が良い気がしたし、香水には好き嫌いがあるから無理してつけなくても、と思っていた。
でも、床に落ちていたスプレーを見て、せめて何か香りを残さなきゃと、そう思った。
だから、ロフトでクシェルヨットのフレグランスボディミストを買った。エルフリーデという限定発売の香りで、ジャスミンとホワイトムスクがブレンドされた、素敵な恋の物語が始まる瞬間をイメージしたもの。
わたしはこれを、ベッドやソファー、ぬいぐるみにたくさん吹きかけて、お風呂あがりの身体にも吹きかけた。
彼がその香りに対してなにか言及することはなかったし、ボディスプレーだからもはやほとんど感じることもなかったのかもしれない。わたしが家を出てからはもう、すぐに香りも消えてしまっていたのかもしれない。
「じゃあ、また」と言って家を出た日も、枕元にたくさんこの香りを吹きかけた。結局それから彼に会うことはなかったけど、あの香りのこと、まだ覚えてるかな、といまだに思うことがある。
わたしの手元にはまだ、エルフリーデの香りのボディミストが半分ぐらい残っていて、もう使うことはないけど、捨てることもできない。
あれから、季節が変わるたびに、香水を買うようになった。もう会わない人が増えるたびに、わたしも新しい香りを纏うようになって。だからといって何かが変わるわけじゃないけど、一種の願掛けみたいなもの。
きみが纏っていた香りの記憶は、わたしにはない。自分の香りを残すことにいっぱいいっぱいで、全然きみのことは見えていなかったな。もう少しちゃんと知ろうとしていれば、きみからフリージアの香りを感じることができたのかもしれない。そうすれば、こんなふうにはならなかったのかもしれないのに。
もう過去のことだけど、この香りが手元にある限り、きっと思い出すんだろう。まだ捨てる勇気はない。中途半端に会わなくなってしまった人のことのほうが、ずっと覚えている気がする。まだ彼はあの街にいるのだろうか。その答えは、わかる必要もないのだけど。エルフリーデの香り。それは、お守りのような、呪いのような。忘れることはない香り。きっとずっとそばにある香り。
わたしは東京にいるよ。いつかまたすれ違ったときには、新しい香りを纏ったわたしに手を振ってね。
クシェルヨットのボディミスト。エルフリーデの香り。そこには、2017年のわたしが眠ってる。そっと瓶を机の上に戻して、SHIROの香水を手に取った。今のわたしには、こっちのほうが似合ってる。
さよなら、エルフリーデの香り。捨てられない、エルフリーデの香り。
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