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選評から遠く離れて

『ヴィンダウス・エンジン』の発売から半月ほど経った。

売れ行きは知らないけれど、評判は上々でうれしい限りである。もちろんダメ出し、難点を指摘されることも多いが、自分で思ったよりも気にならないのが不思議だ。

文庫本の末尾に選評も付いている形なので、読者は合わせてそれを読むことになる。前にも述べたが、あくまで応募時の作品に対する選評であり、それよりかなり手を加えてある完成作とは内容や細部はかなり違っている。

もちろん屋台骨というか本筋の部分は変わらないし、変えようもないが、選評のかなりの部分が完成バージョンとの齟齬を免れない。当たり前だが、あらかじめ選評を見せてもらって、その部分を重点的に修正したのだから、手順上、そうならざるを得ない。

選評なんて外れてる!もっと全然よかったよと言ってくれる人も然りで、申し訳ないが、応募作段階では確かにそうだったのだから仕方がない、と選考委員の方たちを擁護したい。

褒めるにしろ貶すにしろ、どちらにしろ若干ズレた選評になっているのは確かだろう。竹田人造さんは評判の悪かった結末の部分をまるごと変えたと言っていたような気がする。つまり筋書き的にももはや実像とはかけ離れているのだ。これは選考員の問題ではなく、出版プロセス上の落とし穴だ。

ここで何が言いたいかと言うと、人間は錯覚しやすい生き物なので、附加された選評をまるごと鵜呑みにしてしまうのだ。逆に言うと、選評に引っ張られず作品そのものをフレッシュな視点で評価してくれた人には、悪評であれ感謝したい。そこから得られるものが多いからだ。

『ヴィンダウス・エンジン』に限っていえば、釜山を出てからの展開が丁寧に描かれておらず、後半につれてダイジェスト的な感じになってしまい物足りなかったという意見も頂いた。そうかもしれない。一方で、それを物語の加速度的な盛り上がりと取って評価してくださる方もある。これはひとつの選択における表を裏の結果のような気がする。

理論的な辻褄が微妙に合っていないが、勢いとパワーで読ませてくれるので気にならなかったという意見には、辻褄の合わなさに不安を覚えた作者がそれをごまかすために勢いとパワーを注ぎ込んだということもできる。いや本当そう。

選評の毀誉褒貶を離れて嬉しかった評は牧眞司さんの以下のもの。

認知と現実をテーマにしたイーガン流の現代SF……と思いきや、物語のギアがみるみるあがりスペクタクルが大展開。サイバーパンクの書法で綴った神怪小説!

聞きなれない「神怪小説」とは、西遊記や封神演義など怪力乱神の物語を呼ぶものらしい。あるいは異聞や奇譚の類である。確かに西遊記のパロディを書いたほどそっち系の物語を愛している。そのあたりを見抜かれたのは嬉しい驚きであったうえに、僕の書きたかったものの本質を射抜いている。

感想や批評というのもつくづく芸だなと思う。ひねくれものの僕は投稿サイトにレビューを書く段においても、他のレビュアーとは違った切り口にしないと気がすまないタイプで、それはそれで問題なのだが、やはりさんざん踏み荒らされたポイントではなく、足跡ひとつない新雪の斜面を滑りたいのである。しかも、それが曲解でもこじつけでもなくも本質を美しく射抜いた時の快感は何物にも替え難いはずだ。

何度も繰り返されて、とっくにクリシェとなった言葉をさらに再生産するよりも的外れでも新しい言葉を紡ぎたい。それは矜持というよりも体質で時に足を取られるが、いまさら構いやしないのである。

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十三不塔
リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ