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『HRテクノロジーで人事が変わる』解説note ~共著者の一人として、難しい問題をかみ砕いてみた~ ⑦第5章 組織・人材開発における労働法上の留意点

まえがき

 「HRテクノロジーで人事が変わる」(2018年、労務行政)の「第3章 テーマⅢ 組織・人材開発 労働法の視点から」(担当:倉重公太朗 弁護士)の執筆内容について「解説」します。

 あくまでもこれは「解説note」であり、元の内容を正確に、かつ、詳細に理解するためには上記の書籍を必ず購入頂くことを強くお勧めします。

1.HRテクノロジーと「あるべきキャリア」

【要点】
・個人としての「あるべきキャリア」と会社全体としての最適配置を考慮して、HRテクノロジーによってなされたレコメンドが相反する可能性
・労働法的に優先されるのは全体最適
・組織戦略の観点から「全体最適」を視野に入れながらも、いかにして「個別化人事」を実現できるようにしていくかが人事の腕の見せ所

 HRテクノロジーにより、個人の成長戦略など「あるべきキャリア」の提示が個々の労働者に対して行われるようになる。個々人が「あるべきキャリア」を意識して、自らの希望部署や今後注力する業務を検討するために用いることが本来の活用法である。
 しかし、「キャリア権」のところで述べた通り、会社としては希望通りにする義務はない。そのため、個人としての「あるべきキャリア」と会社全体としての最適配置を考慮して、HRテクノロジーによってなされたレコメンドが相反する可能性もあることを認識する必要がある。
 そのとき、人事権の範囲内であれば当該異動(あるいは異動させないこと)は有効であるため、労働法的に優先されるのは全体最適の考え方ということになる。
(もちろん、個別調整により本人の希望をどこまで斟酌するかは会社の自由である。)
 むしろ、組織戦略の観点から「全体最適」を視野に入れながらも、いかにして「個別化人事」を実現できるようにしていくかが人事の腕の見せ所である。ここでHRテクノロジーをうまく活用することにより、これまでよりもはるかに理想形に近づけるはずである。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点1」を参照)

2.HRテクノロジーと労働力移動に関する法規制

【要点】
・出向などで社外のポジションを経たほうが結果的に社内での成長が促進されるという判断が行われる可能性
・出向先・出向元と両者の雇用契約関係が並存する(二重の雇用契約関係)のが出向(労働契約法14条)

<出向が認められる場合>
①労働者を離職させるのではなく、関係会社において雇用機会を確保する。
②経営指導、技術指導の実施。
③職業能力開発の一環として行う。
④企業グループ内の人事交流の一環として行う。

 HRテクノロジーによるキャリア提示のパターンとしては、社内のポジションのみならず、出向などで社外のポジションを経たほうが結果的に社内での成長が促進されるという判断が行われる可能性もある。「レンタル移籍」(あるいはpart-time Loan)といわれることもあるが、企業間人事異動についてはそれが雇用契約の形を取り、元の雇用契約が残る以上は出向という形になる。
 出向先・出向元と両者の雇用契約関係が並存する(二重の雇用契約関係)のが出向である。出向については労働契約法14条に規定されている。

 この条文は出向命令権の濫用について規定するのみで、どのような場合に「出向を命ずることができる」のかは明らかではない。
 仮に出向が認められない場合(偽装出向)、「業として」行うとなれば職業安定法が禁じる労働者供給事業職業安定法44条)となる可能性がある。

 そのため、どのような場合に出向が認められるかは、労働取締法規に抵触しないためにも重要である。
 厚生労働省「労働者派遣事業関係業務取扱要領」によると、出向が認められるのは以下の場合とされている。

【出向が認められる場合】
①労働者を離職させるのではなく、関係会社において雇用機会を確保する。
経営指導、技術指導の実施。
職業能力開発の一環として行う。
④企業グループ内の人事交流の一環として行う。

 したがって、社外におけるキャリア構築について元の会社との雇用関係を継続しながら行う場合には、
①資本関係のある関係会社間で行う、
②継続的取引関係のある会社における経営指導、技術指導や、
職業能力開発の一環として行う、
④企業グループの慣例的な人事交流として行う、
という設計にする必要がある。
 また、「業として」行ってはならないので、社外移籍により利益を得るようなことは避けるべきである。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点2」を参照)

3.HRテクノロジーと賃金制度変更

【要点】
・より機動的な賃金変更を行いやすい役割・職務・成果による賃金制度へ移行
・賃金制度の変更(就業規則の不利益変更論)

・「ノイズ研究所事件」判決での不利益変更の合理的判断
 ①給与原資総額は減らさず、配分の仕方を改めるものであること
 ②自己研鑽による職務遂行能力等の向上により昇格・昇給の機会平等が保障されていること
 ③合理的な人事評価制度があること(成果・業績評価基準の明確化、評価手続き、不服申し立て手続き)
 ④激変緩和措置(調整給、減額制限)

・③について
 -不服申し立てが行われたら別の評価者からみても賃金減額が合理的であると評価できる必要があり、その前提として評価の根拠が明確であることが必要
 -「評価の根拠となった事実は何か」という視点が重要

(1)HRテクノロジーの実効性を高めるための賃金制度変更

 HRテクノロジーの導入を契機として、日本型雇用に多く見られる年功序列的賃金制度から、より機動的な賃金変更を行いやすい役割・職務・成果による賃金制度へ移行することが考えられる。
 「配置」でも説明された通り、これは賃金制度自体の変更となるため、就業規則の不利益変更労働契約法10条)において合理性があるかが問題となる。以下の要素を検討した上で、「合理性」があるか否かという議論になる。

【労働契約法10条の考慮要素】
(i)労働者の受ける不利益の程度
(ii)労働条件の変更の必要性
(iii)変更後の就業規則の内容の相当性
(iv)労働組合等との交渉の状況
(v)その他の就業規則の変更に係る事情

 判例上、「(ii)労働条件の変更の必要性」は企業の裁量を広く認める傾向にある。
・国際競争の激化
・労働生産性向上
の観点からの能力・成果主義に基づく賃金制度変更の必要性は肯定されている。そして、HRテクノロジーを活用した労働生産性の向上も、これを肯定する要素となる。
 では、「(i)労働者の受ける不利益の程度」や「(iii)変更後の就業規則の内容の相当性」についてはどう考えるべきか。
 この点、成果主義的賃金制度への変更に関しては下記判例が参考になる。

【判例の紹介】
ノイズ研究所事件
(平成18年6月22日東京高裁判決)

<具体的事案>
 原告が勤務する会社は実質的に年功序列型の給与制度をとっていたが、競争力強化のため、成果主義に改める必要があると判断。2001年4月1日に給与制度の変更に踏み切った。
 減額となる社員には、経過措置として変更1年目は減額分全額、2年目は50%を「調整手当」として補てんした。
 この変更で原告らは基本給が月額約7万2,000円~3万4,000円減額となるなどの不利益を受け、給与減額分の支払いなどを求めて提訴した。
<判決内容>
 職務の格付けと会社側による社員の業績、能力の評価によって給与を決定する被告会社の成果主義への変更は、職務の格付けが変更前より低かったり、その後の人事考課査定で社員が降格されたりした場合には、給与が変更前より顕著に減少する可能性がある点で、就業規則の不利益変更に当たる。
 最高裁の判例で、労働条件の一方的な不利益変更は原則として許されないが、労働者の被る不利益を考慮しても、変更の必要性と内容の合理性があれば、個々の労働者は変更の適用を拒むことはできない。
 そこで変更の必要性と内容の合理性を検討すると、被告会社は主力商品市場がグローバル化し、競争が激化した経営状況の中で、実績に見合った報奨でインセンティブを与え、積極的に職務に取り組む社員の活力を引き出し、労働生産性を高めて競争力を強化する高度の必要性があった。
 給与制度変更は重要な職務に有能な人材を投入するため、職務の重要性に応じて処遇するもので、給与の原資総額を減少させるのではなく、配分をより合理的なものに改めようとしたものだ。
 どの社員にも自己研さんによる職務能力向上で昇格・昇給ができる平等な機会を保障し、人事評価でも最低限必要とされる合理性を肯定しうることからすれば、就業規則変更は必要性に見合ったものとして相当である。
 また被告会社があらかじめ社員への変更内容の周知に努め、労働組合との団体交渉を通じて円滑に変更しようとした労使交渉の経過や、それなりの緩和措置としての意義を有する経過措置が取られたことを併せて考えると、不利益性があり、経過措置が2年に限って減額分の一部を補てんするにとどまるものであることを考慮しても、変更には合理性がある。
以上によれば、原告らの請求は理由がなく、棄却すべきである。控訴には理由があり、一審判決の被告会社敗訴部分を取り消す。

 この判例での不利益変更の合理的判断については、以下の①~④が重要な視点として示されている。

①給与原資総額は減らさず、配分の仕方を改めるものであること
②自己研鑽による職務遂行能力等の向上により昇格・昇給の機会平等が保障されていること
③合理的な人事評価制度があること(成果・業績評価基準の明確化、評価手続き、不服申し立て手続き)
④激変緩和措置(調整給、減額制限)

 ①については、賃金制度変更を総賃金減額のための手段としてはならず、あくまでも賃金配分を変更するという目的が重要である。結果としてある年度の総賃金額が減額することはあり得ても、当初から企図してはならない。減少目的が認定されると、業績不振や今後の経営見通しなど別の考慮要素が問われることになる。

 次に②については、職務や成果により賃金額が変更される制度の場合、どの職務を担当するかによって相当な賃金の差が生じることになる。HRテクノロジーを活用した配置については、現時点で最適な配置といえるだけではなく将来にわたって合理的といえるためには、配置された部署における昇格や再配置による昇給のチャンスが公平である必要があるため、自己研鑽のための機会提供(能力開発・研修による昇格・異動のチャンスの付与)とセットで行う必要がある。

 また③については、賃金額決定の前提となる評価が合理的に行われる必要がある。HRテクノロジーの活用により、人間だけで評価を行う場合よりも客観的で公平な内容となることが期待され、合理性も担保される。
 一方で、「AIがそう判断したから」という理由での賃金減額ではAIの判断の合理性を説明したことにならないため、合理性は認められない。あくまでも人間の判断のサポートとして利用し、人間の観点で減額理由などを説明できるようにする必要がある。
 この点は、人事評価の不服申し立て手続きの整備が要求されていることとも関連する。つまり、不服申し立てが行われたら別の評価者からみても賃金減額が合理的であると評価できる必要があり、その前提として評価の根拠が明確であることが必要だからである。HRテクノロジーを活用した評価についても、「評価の根拠となった事実は何か」という視点が重要である。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点3」を参照)

 最後に④については、調整手当や調整給を数年支給し、減額制限を設けるなどして制度変更当初の激変緩和を図ることが重要である。急激な賃金減額は就業規則変更の合理性を否定する要素となるため、制度変更の際は「小さく産んで、徐々に育てる」視点が重要である。

(2)HRテクノロジーに関する組合協議

 次に「(iv)労働組合等との交渉の状況」の関係で、労働組合や従業員代表との協議、従業員に対する説明会が重要であり、「ノイズ研究所事件」でも組合協議の重要性は指摘されている。
 HRテクノロジーの活用については一般従業員に理解されていないことも多く、リスクに関しての認識もまちまちである。そのため、まずはテクノロジーの内容自体を組合に理解してもらうことが重要であり、分かりやすい説明資料を作成して丁寧に実施すべきである。特に、制度変更の合理性が問われる裁判においてはこの説明資料が証拠として用いられる可能性を意識すべきである。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点4」を参照)

4.HRテクノロジーと賃金減額(個別の適用問題)

(1)HRテクノロジーによる人事評価と賃金減額

【要点】
・年俸制における賃金額変更に関する裁判例(日本システム開発研究所事件)
 以下の要素が認められる場合に限り会社に評価決定権
 ①以下の要素が制度化されて就業規則等に明示されていること。
  (i)年俸額決定のための成果・業績評価基準
  (ii)年俸額決定手続き
  (iii)減額の限界の有無
  (iv)不服申し立て手続き
 ②その内容が公正であること

・HRテクノロジーによる判断が「公正」かどうかは、判断要素となったエピソードや評価プロセスを検証
・どのようなデータ(事実関係)を考慮して人間が最終判断を行ったのかというプロセスを可視化

 既にある賃金制度を適用して賃金額を変更する場合には、就業規則の不利益変更の問題ではなく、人事評価権の濫用、つまり当該制度下における裁量権逸脱の有無が問題となる。
 このケースを前提として、HRテクノロジーで従業員の評価および賃金決定(増額・減額)を行う場合の留意点を検討する。
 年俸制における賃金額変更に関する裁判例(日本システム開発研究所事件)によれば、以下の要素が認められる場合に限り会社に評価決定権があるとされている。

①以下の要素が制度化されて就業規則等に明示されていること。
(i)年俸額決定のための成果・業績評価基準
(ii)年俸額決定手続き
(iii)減額の限界の有無
(iv)不服申し立て手続き
②その内容が公正であること

【判例の紹介】
日本システム開発研究所事件
(平成20年4月9日東京高裁判決)

<具体的事案>
 Y社では、20年以上前から就業規則を変更することなく、主に40歳以上の研究職員を対象として、年俸制度を導入していた。
 Y社と労働者との年俸交渉は毎年6月に行われ、その年度(当年4月1日から翌年3月31日まで)の年俸を決めることとし、その際、5月中旬頃まで個人業績評価を行い、非年俸者の給与改定基準表を参考に、Y社の役員が交渉開始の目安となる提示額を計算し、1人当たり30分から1時間ほどの交渉が行われ、役員と労働者が協議して最終的な合意額と支払方法を決定していた。
 ところが、平成15年・16年において、業績評価の基となる資料の提出を研究室長らが拒んだことから業績評価ができず、平成14年度の給与のままとされた。
 その後、Y社の経営が悪化したことなどから給与の見直しを行い、平成17年度にはY社の役員が作成した評価に基づく業績評価を行い個別の交渉を行ったが、年俸額が大幅に引き下げられていたことから合意に至らなかった。
 Y社は、今後の交渉による確定・清算を予定しつつも、暫定的に算定した額に基づき賃金を支払った。
 そこで、年俸制の適用を受けていた4名の原告Xらが、従前の賃金との差額等を求めて提訴した。
<判決内容>
 Y社における年俸制のように、期間の定めのない雇用契約における年俸制において、使用者と労働者との間で新年度の賃金額についての合意が成立しない場合は、年俸額決定のための成果・業績評価基準年俸額決定手続減額の限界の有無不服申立手続等が制度化されて就業規則に明示され、かつ、その内容が公正な場合に限り、使用者に評価決定権があるというべきである。
 上記要件が満たされていない場合には、労働基準法15条、89条の趣旨に照らし、特別の事情が認められない限り、使用者に一方的な評価決定権はないと解するのが相当である。
 年俸額について合意が成立しない場合に、Y社が年俸額の決定権を有するということはできず、前年度の年俸額をもって次年度の年俸額とせざるを得ない。

 ここで、HRテクノロジーによる判断が「公正」かどうかは、判断要素となったエピソードや評価プロセスを検証できるか否かにかかっている。とはいえ、その判断プロセスのすべてを理解することは通常不可能である(判断プロセスがクリアになるソリューションであれば問題ないが)。そのため、その判断はあくまでも補助的なものとなる。
 よって、どのようなデータ(事実関係)を考慮して人間が最終判断を行ったのかというプロセスを可視化することが重要である。特に、減額の合理性を担保するためには不服申し立て手続きの制度化が求められているため、このプロセスの透明性が重要な要素となる。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点5」を参照)

(2)HRテクノロジーと人事権行使としての降格による賃金額変更

【要点】
・賃金減額を伴う役職・職位の降格(懲戒処分としてではなく人事権行使として)を行う場合も、人事権濫用の問題(バンク・オブ・アメリカ・イリノイ事件)
・降格の合理性
 ①業務上・組織上の降格の必要性の有無・程度
 ②労働者がその職務・地位にふさわしい能力を有するか
 ③労働者の受ける不利益の性質・程度

・②が「ないこと」についてどのようなデータに基づいて判断が行われたか

・人事権行使としての降級に関する判例(マッキャンエリクソン事件)
・本人の顕在能力と業績が、本人の属する資格(給与等級)に期待されるものと比べて著しく劣っていると判断できることを要する
・判断根拠となった「具体的事実」に関する検証可能性が重要

・評価の合理性を担保する上では、労働者の言い分を聞く手続きが取られているかという視点も重要(エーシーニールセン・コーポレーション事件)


 HRテクノロジーの判断により降格させたほうが適切であるとされ、賃金減額を伴う役職・職位の降格(懲戒処分としてではなく人事権行使として)を行う場合も、人事権濫用の問題となる(バンク・オブ・アメリカ・イリノイ事件)。
 降格の合理性については以下の要素が検討される。
①業務上・組織上の降格の必要性の有無・程度
②労働者がその職務・地位にふさわしい能力を有するか
③労働者の受ける不利益の性質・程度

 HRテクノロジーの判断に基づいて降格を行う場合、②が「ないこと」についてどのようなデータに基づいて判断が行われたか、その具体的事実および評価が正しいかという点の論証が問題となる。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点6」を参照)

【判例の紹介】
バンク・オブ・アメリカ・イリノイ事件
(平成7年12月4日東京地裁判決)

<具体的事案>
 Yはアメリカに本店を有し、在日支店として東京支店及び大阪支店を有する銀行である。
 Xは、昭和27年から勤務したA銀行が昭和39年にYに買収されたことに伴いYに雇用された者であって、昭和47年1月、Xは、Y東京支店の総務課セクションチーフ(課長)に昇格した。
 しかし、Y銀行在日支店は昭和53年度以降ずっと赤字基調にあって、合理化・機構改革が急務となっていたところ、首脳部は管理職らに対し、新経営方針への理解・協力を求めたが、積極的に協力を申し出たのは一部の管理職に過ぎず、Xを含めた多数の管理職らはこれに協力する姿勢が積極的でなかったため、Yは、昭和57年4月頃、新方針に積極的に協力するものを昇格させる一方、多数の管理職を降格した。
 その一環として、Xはオペレーションズテクニシャンに降格された上、昭和61年には総務課の受付業務や備品管理・経理支払事務の担当に配転され、平成2年に人員縮小を理由に解雇された。
 そこで、Xは、Yによるオペレーションズテクニシャンへの降格から受付配転にいたる一連の行為は、Xを退職に追い込む意図をもってなされた不法行為であるとして、慰謝料の支払を求めた。
<判決内容>
 使用者が有する採用、配置、人事考課、異動、昇格、降格、解雇等の人事権の行使は、雇用契約にその根拠を有し、労働者を企業組織の中でどのように活用・統制していくかという使用者に委ねられた経営上の裁量判断に属する事柄であり、人事権の行使は、これが社会通念上著しく妥当を欠き、権利の濫用に当たると認められる場合でない限り、違法とはならないものと解すべきである。
 しかし、右人事権の行使は、労働者の人格権を侵害する等の違法・不当な目的・態様をもってなされてはならないことはいうまでもなく、経営者に委ねられた右裁量判断を逸脱するものであるかどうかについては、使用者側における業務上・組織上の必要性の有無・程度、労働者がその職務・地位にふさわしい能力・適性を有するかどうか、労働者の受ける不利益の性質・程度等の諸点が考慮されるべきである。
<Xのオペレーションズテクニシャンへの降格について>
 Xが昭57年4月に発令されたオペレーションズテクニシャンとは、豊富な経験と専門的知識を有するものに与えられる職位であるとされるが、いわゆるライン組織からはずれ、それまで同格であった同僚課長の指揮監督を受ける立場に転ずるものであり、Xが降格後に与えられた職務内容からみても、必ずしもXの経験と知識を生かすにふさわしい地位であるとは認め難く、Xが右発令により精神的衝撃・失望感は決して浅くはなかったと推認される。
 しかしながら、Y銀行在日支店においては、昭和56年以降、新経営方針の推進・徹底が急務とされ、Xらこれに積極的に協力しない管理職を降格する業務上・組織上の高度の必要性があったと認められること、役職手当は、42,000円から37,000円に減額されるが、人事管理業務を遂行しなくなることに伴うものであること、Xと同様に降格発令をされた多数の管理職らは、いずれも降格に異議を唱えておらず、Y銀行のとった措置をやむを得ないものと受けとめていたと推認されること等の事実からすれば、Xのオペレーションズテクニシャンへの降格をもって、Y銀行に委ねられた裁量権を逸脱した濫用的なものと認めることはできない
<Xの総務課(受付)への配転について>
 総務課の受付は、それまで20代前半の女性の契約社員が担当していた業務であり、外国書簡の受発送、書類の各課への配送等の単純労務と来客の取次を担当し、業務受付とはいえ、Xの旧知の外部者の来訪も少なくない職場であって、勤続33年に及び、課長まで経験したXにふさわしい職務であるとは到底いえず、Xが著しく名誉・自尊心を傷つけられたであろうことは推測に難くない。
 Xは、同年5月から、備品管理・経費支払事務を担当したが、従来同様、昼休みの一時間は、総務課員のうちXだけが受付を担当していた。
 そして、備品管理等の業務もやはり単純労務作業であり、Xの業務経験・知識にふさわしい職務とは到底いえない。
 Xに対する総務課(受付)配転は、これを推進したB人事部長自身、疑念を抱いたものであって、その相当性について疑問があり<中略>、Xら元管理職をことさらにその経験・知識にふさわしくない職務に就かせ、働きがいを失わせるとともに、行内外の人々の衆目にさらし、違和感を抱かせ、やがては職場にいたたまれなくさせ、自ら退職の決意をさせる意図の下にとられた措置ではないかと推知されるところである。
 そして、このような措置は、いかに実力主義を重んじる外資系企業にあり、また経営環境が厳しいからといって是認されるものではない。
 そうすると、Xに対する右総務課(受付)配転は、Xの人格権(名誉)を侵害し、職場内・外で孤立させ、勤労意欲を失わせ、やがて退職に追いやる意図をもってなされたものであり、Yに許された裁量権の範囲を逸脱した違法なものであって不法行為を構成するというべきである。

 人事権行使としての降級に関する判例を見ると、マッキャンエリクソン事件では、実際に降級を行うにはその根拠となる具体的事実を必要とし、具体的事実による根拠に基づいて、本人の顕在能力と業績が、本人の属する資格(給与等級)に期待されるものと比べて著しく劣っていると判断できることを要するのが相当とされており、判断根拠となった「具体的事実」に関する検証可能性が重要である。

【判例の紹介】
マッキャンエリクソン事件(職務等級の降格事例)
(平成19年2月22日東京高裁判決)

<具体的事案>
 Yは、米国法人と日本法人の共同出資により設立された広告代理店である。
 Xは、1984年4月Yに入社し、2002年以降、メディアマーケティング本部業務部(業務部)に所属していた。
 Yは、2001年10月に賃金制度を変更し、成果主義賃金体系を基礎とする新賃金制度を導入した。
 Yの親会社は、2001年10月、Yに対し人員削減を指示し、これを受けてY人事部は退職勧奨対象者をリストアップし、当時メディアマーケティング本部に所属していたXを含む8名が退職勧奨され、1名を除きこれを拒否した。
 Y副社長は同月頃、Xに対し、経営構想外であるなどと退職を勧奨したが、Xはこれを拒否し、更に1週間後に退職勧奨をしてもXが拒否したことから、副社長は、「この先給料が上がると思うな。這いつくばって生きていけ」などと発言した。
 Xの1999年の評価は+1、2000年の評価は0であったのに対し、2001年の評価は−1であったが、Xはやむを得ない評価として異議を留めず、2002年1月から新たに就いた業務部次長としての仕事に取組み始めた。
 ところが、Xの2002年の評価が−2であったことから、YはXを降級の対象とし、昇格会議の議を経て2003年4月以降、Xを7級から6級に降級することに決定し、基本給与は減額された。
 Xは、2002年度の評価−2は不当に低い評価であり、本件降級処分は裁量権を逸脱して無効であると主張し、7級としての給与の支払いを求めて争った。
<判決内容>
 当裁判所も、Xの請求のうち給与等級7級の労働契約上の地位を有することの確認請求は理由があり、差額賃金請求についても原判決が認容した限度で理由があるからこれらを認容すべきであるが、Xのその余の請求は理由がないからこれを棄却すべきものと判断する。
 降級の基準について上記のとおり定める新賃金規程が就業規則であることについては当事者間に争いがないところ、新賃金規程に基づきYが行う人事評価は、事柄の性質上使用者であるYの裁量判断にゆだねられているものであるが、Yが就業規則である新賃金規程において上記のとおり本人の顕在能力と業績が属する資格(=給与等級)に期待されるものと比べて著しく劣っていることという降級の基準を定め、「本人の顕在能力と業績」に着目することにより、職務遂行上外部に表れた従業員の行為とその成果が当該資格に期待される水準に著しく劣っていることを降級の基準としているのであって、このことに、「降級はあくまで例外的なケースに備えての制度と考えている。著しい能力の低下・減退のような場合への適用のための制度である。通常の仕事をして、通常に成果を上げている人に適用されるものではない。」との注釈を加えている趣旨にかんがみれば、新賃金規程の定める上記の降級の基準は使用者であるYの裁量を制約するものとして定められており、新賃金規程の下でYが従業員に対し降級を行うには、その根拠となる具体的事実を必要とし、具体的事実による根拠に基づいて本人の顕在能力と業績が属する資格(=給与等級)に期待されるものと比べて著しく劣っていると判断することができることを要するものと解するのが相当である。
 以上によれば、Yが従業員に対して降級を行うには、周知性を備えた就業規則である新賃金規程の定める降級の基準に従ってこれを行うことを要するのであり、新賃金規程の下でYが従業員に対し降級を行うには、その根拠となる具体的事実を必要とし、具体的事実による根拠に基づき、本人の顕在能力と業績が、本人が属する資格(=給与等級)に期待されるものと比べて著しく劣っていると判断することができることを要するものと解するのが相当である。
 Yが人事評価の結果に即して降級の内規を定めて運用を行っていることは上記のとおりであるが、人事評価の結果当該内規に該当したからといって直ちに就業規則である新賃金規程の定める降級の基準に該当するものということはできないのであり、具体的事実による根拠に基づき、本人の顕在能力と業績が、本人が属する資格(=給与等級)に期待されるものと比べて著しく劣っていると判断することができることを要するものというべきである。
 したがって、本件降級処分が有効であるというためには、Yは根拠となる具体的事実を挙げて、Xの顕在能力と業績が7級に期待されるものと比べて著しく劣っていると判断することができるものであることを示す必要があるというべきところ、Xの2002年度の業務部での勤務振りは通常の勤務であり、Yの主張する降級理由がいずれも認めるに足りる的確な証拠の存在しない本件にあっては、本件降級処分は権限の裁量の範囲を逸脱したものとして、その効力はないものと解するのが相当である。
 したがって、Xを7級から6級に降級した本件降級処分は効力がなく、Xは依然として7級の地位にあると認めるのが相当である。
 以上によれば、Xの請求のうち給与等級7級の労働契約上の地位を有することの確認請求は理由があり、差額賃金請求についても原判決が認容した限度で理由があるからこれらを認容すべきであるが、Xのその余の請求は理由がないからこれを棄却すべきである。

 なお、評価の合理性を担保する上では、労働者の言い分を聞く手続きが取られているかという視点も重要である(エーシーニールセン・コーポレーション事件)。このため、HRテクノロジーにより得られた評価をそのまま適用するのではなく、適切にフィードバックを行い、本人の自己評価との乖離を埋める努力をすることが重要となる。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点7」を参照)

【判例の紹介】
エーシーニールセン・コーポレーション事件
(平成16年3月31日東京地裁判決)

<具体的事案>
 Yの従業員であるXらが、減額された賃金等の支払を求めた。
 Yは、平成11年8月31日、旧会社から、リテール・インデックス・ビジネスについて営業譲渡を受け、旧会社の前身である日本支社に従業員として採用されたXらは少なくとも平成12年12月1日以降、Yの従業員として雇用されていた。
<判決内容>
 労働契約の内容として、成果主義による基本給の降給が定められていても、使用者が恣意的に基本給の降給を決することが許されないのであり、降給が許容されるのは、就業規則等による労働契約に、降給が規定されているだけでなく、降給が決定される過程に合理性があること、その過程が従業員に告知されてその言い分を聞く等の公正な手続が存することが必要であり、降給の仕組み自体に合理性と公正さが認められ、その仕組みに沿った降給の措置が採られた場合には、個々の従業員の評価の過程に、特に不合理ないし不公正な事情が認められない限り、当該降給の措置は、当該仕組みに沿って行われたものとして許容されると解するのが相当である。
 本件においては、上司の評価の結果は従業員に告知され、従業員が意見を述べることか(ママ)でき、従業員の自己評価もYの人事部門に報告されるという仕組みには、一定の公正さが担保されているということができる。 

(3)HRテクノロジーと合意による賃金額変更

【要点】
・賃金規程の一方的適用ではなく合意により賃金変更する場合、労働契約内容は合意により変更可能であるため(労働契約法8条)、賃金減額を伴う労働条件変更も可能
・合意は賃金の異議なき受領という黙示の合意では足りず、「労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する」こと(合意の真意性)が必要(更生会社三井埠頭事件、シンガー・ソーイング・メシーン事件)
・毎年、賃金制度に基づく評価結果による年俸について合意により賃金額変更を行っていたが、ある年については合意が整わないというケースについては、一方的変更は人事権の範囲内で可能であるが、それは目標設定と評価に関する公正な手続き・苦情処理が前提(中山書店事件)
・一度合意により年俸額を確定した場合、その年俸額につき当該年度の途中で変更することは不可能(シーエーアイ事件)

 賃金規程の一方的適用ではなく合意により賃金変更する場合、労働契約内容は合意により変更可能であるため(労働契約法8条)、賃金減額を伴う労働条件変更も可能である。

 ただし、ここで求められる合意は賃金の異議なき受領という黙示の合意では足りず、「労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する」こと(合意の真意性)が必要である(更生会社三井埠頭事件シンガー・ソーイング・メシーン事件)。

【判例の紹介】
更生会社三井埠頭事件
(平成12年12月27日東京高裁判決)

<具体的事案>
 Yは、平成10年5月以降、Xら管理職従業員の毎月の賃金を減額して支給した。
 Xらが、在職中に一方的に賃金を減額されたとして、更生会社の管財人に対して未払賃金の支払いを求めた。
<判決内容>
 労基法24条1項本文はいわゆる賃金全額払の原則を定めているところ、これは使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図る趣旨に出たものであると解されるから、就業規則に基づかない賃金の減額・控除に対する労働者の承諾の意思表示は、賃金債権の放棄と同視すべきものであることに照らし、それが労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときに限り、有効であると解すべきである。


【判例の紹介】
シンガー・ソーイング・メシーン事件
(昭和48年1月19日最高裁判決)

<具体的事案>
 従業員が退職することになり、就業規則の規定に基づいて退職金の額を計算すると約400万円になった。
 退職に際して、従業員は、「会社に対して、いかなる性質の請求権をも有しないことを確認する」旨の記載のある書面に署名をして、会社に提出した。
 その後になって、従業員が会社に退職金の支払いを求めたが、会社は書面によって退職金債権を放棄したと主張して、従業員の求めに応じなかった。
 これに対して、従業員は、退職金債権を放棄したとしても、その意思表示は錯誤によるもので無効であるし、労働基準法第24条第1項の賃金の全額払いの原則の趣旨に反するもので無効として、退職金の支払いを求めて訴えを提起した。
<判決内容>
 本件退職金は、就業規則で支給条件が予め明確に規定されていて、会社に支払義務があるため、労働基準法第11条の労働の対償としての「賃金」に該当し、その支払については、労働基準法第24条第1項の賃金の全額払いの原則が適用される。
 賃金の全額払の原則の趣旨は、会社が一方的に賃金を控除することを禁止し、従業員に賃金の全額を確実に受領させ、従業員の経済生活をおびやかすことのないようにして、その保護をはかろうとするものである。
 この労働基準法第24条第1項の規定は、従業員が退職に際して自ら退職金債権(賃金債権)を放棄する旨の意思表示をした場合に、その意思表示を否定するものではない。
 ただし、賃金の全額払の原則の趣旨を考えると、その意思表示を肯定するには、それが従業員の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならない。
 この従業員は、退職前は会社の西日本における総責任者の地位にあったが、退職後直ちに会社の一部門と競争関係にある他の会社に就職することが判明していた。
 また、会社は、この従業員の旅費等の経費の使用について、書面上つじつまの合わない点があり幾多の疑惑をいだいていた。この疑惑に関する損害の一部を填補する目的で、会社から従業員に対して、書面への署名を求めたところ、これに応じて署名した。
 以上の諸事情に照らすと、退職金債権を放棄するという意思表示は、従業員の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していたものとして、有効である。

 したがって、賃金額変更の合意を得る際は、なぜこのような変更が行われるのか、また、それがいかに根拠を有し、公正な評価により行われているかを説明し、対象者の理解と納得を得て行う必要がある。そのためこれまでの論点と同様、具体的事実に基づく評価の根拠を人間が説明できなればならない(人間の判断のサポートをテクノロジーが行う形であれば問題ない。)。
 では、毎年、賃金制度に基づく評価結果による年俸について合意により賃金額変更を行っていたが、ある年については合意が整わないというケースについてはどうすればよいか。
 この場合、一方的変更は人事権の範囲内で可能であるが、それは目標設定と評価に関する公正な手続き・苦情処理が前提となっている(中山書店事件)。

【判例の紹介】
中山書店事件
(平成19年3月26日東京地裁判決)

<具体的事案>
 Xらは、出版業等を営むY社の正社員である。
 Y社においては、主任以上の役職者以外の従業員のほとんどに「一般管理職」の肩書きを付与しており、Xらも「一般管理職」である。
 Y社は、平成13年2月頃、一般管理職に新たに年俸制を導入すること、就業規則とは別に個別に年俸契約にすることを表明した。
 その後、平成14年8月に就業規則改正が行われ、「労使双方面談のうえ原則として7月中に次年度の年俸を決定する」と定められた。
 XらとY社の間では、平成15年8月までの年俸額については合意に基づく決定がなされていたが、同年9月以降についてはY社の提示した年俸額にXらが同意せず、両者間で協議が継続している。
 この間、Y社は、提示額を上回る年俸額が確定した場合は差額を支給することとしつつ、提示した年俸額に基づいて月例賃金等を支払っている。
 Xらは、次年度以降の年俸額を主張し、差額分の支払いを求めた。
<判決内容>
 本件年俸制の下での年俸額に関するY社とXらとの合意は、1年という期間を設定してされているのであるから、その合意の効力も、設定された期間においてのみ存在すると解される。
 本件年俸制において、年俸額を決定するためのY社とXらの協議が整わない場合には、使用者であるY社がXらとの協議を打ち切って、その年俸額を決定することができると解され、この場合、Y社のした決定に承服できない当該社員は、Y社が決定した年俸額がその裁量権を逸脱したものかどうかについて訴訟上争うことができると解される。
 Y社が上記決定権を行使せず、年俸額に関する社員との協議を継続し、社員もこの協議に応じながら労務の提供を継続する場合には、Y社が提案した年俸額よりも低い金額で合意が成立することは通常想定し得ないから、Y社が提案した金額を年俸額の最低額とする旨の合意がされていると解することができ、社員は、Y社が提案した金額をY社に請求することができるが、これを上回る年俸額についての合意がない以上、Y社提案額を上回る金員をY社に請求することはできないと解される。

 そのため、前述のとおりHRテクノロジーにより評価を行う基礎となった具体的事実と、これに対する評価の検証可能性が重要である。

 なお、一度合意により年俸額を確定した場合、その年俸額につき当該年度の途中で変更することは不可能である(シーエーアイ事件)。

【判例の紹介】
シーエーアイ事件
(平成12年2月8日東京地裁判決)

<具体的事案>
 Yは、情報処理に関する調査研究コンサルタント業等を営んでいる会社である。
 Yの賃金規則には、賃金の構成として、裁量労働により労務を提供するか否かによって、それぞれ本給、家族手当、住宅手当等の項目が掲げられていたが、本給や賞与の具体的な額については定められていなかった。
 平成9年4月1日、XはYとの間で、「平成9年4月1日から1年間、年俸620万円(月額36万5000円及び賞与5か月分)並びに、家族手当毎月5000円、裁量労働により労務を提供する」との労働条件で契約を締結した。
 その後、Yの財政状況が悪化したことから、Yは同年8月1日、就業規則及び賃金規則を変更し、就業形態に関する定めを置かずに、毎月の賃金を年齢給、職能給、業績給(当月の成績により職能給額の0~50%を支給)、期待給及び諸手当により構成されるものとした。
 同年8月、業績給決定の資料としてXが提出した自己評価表について、Yは内容が不十分として再提出を求めたが、Xがこれを拒否したことから、8月分の賃金は年齢給及び職能給のみの合計である16万5000円となった。
 そこで、Xは、一方的に労働条件が引き下げられたと主張し、変更前の就業規則に基づく賃金との差額の支払等を求めて争った。
<判決内容>
 新賃金規則の適用によりY社の従業員のうちで賃金額が減少した者と増額した者とがあるが、賃金減額を生じうる変更である以上、新賃金規則への変更は就業規則の不利益変更に該当するものと認められ、このように就業規則の改定によって労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは原則として許されないが、当該条項が合理的なものである限りこれに同意しない労働者もその適用を拒むことはできないというべきである。
 しかし、XとY社は期間を1年とする本件雇用契約により、旧賃金規定の支給基準等にかかわらず、支払賃金額は月額36万5000円、年俸額620万円の確定額として合意をしているのであり、このような年俸額及び賃金月額についての合意が存在している以上、Y社が就業規則を変更したとして合意された賃金月額を契約期間の途中で一方的に引き下げることは、改定内容の合理性の有無にかかわらず許されないものといわざるを得ない。
したがって、XはYに対し、平成9年8月分の未払賃金20万円の支払請求権を有するものと認められる。

 そのため、年に数回実施する評価により賃金額を増減させたい場合には、確定額の年俸について合意するのではなく、インセンティブや変動型ボーナスの余地を残しておく設計にすべきである。

 いずれにせよ、HRテクノロジーを用いた賃金決定においては、人による恣意的な判断が入らないぶん公平性は担保されやすいが、その根拠に関する納得のいく説明や検証可能性が重要な要素となる。そのため、HRテクノロジーに全面的に賃金決定を任せるのではなく、人間が公平に賃金を決定するための有力なツールとして使うべきである。

5.HRテクノロジーと労働時間

【要点】
・個別育成プログラムや個別研修を労働時間として扱うべきか。
・労働時間該当性については「労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間」(三菱重工長崎造船所事件)
 ①義務付け(強制)の程度
 ②業務性の有無(業務との関連性)
 ③時間的・場所的拘束性の有無

・実際には、使用者の指示により業務に従事しているなど使用者の指揮命令下に置かれていたと認められる時間については、労働時間

 HRテクノロジーが労働者のデータを分析することで、その労働者のキャリア目標にマッチした個別育成プログラムや個別研修を組むことが可能である。研修については様々なものが想定されるが、そのすべてを労働時間として扱うべきか。
 この点、労働時間該当性については「労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間」(三菱重工長崎造船所事件)とされ、具体的には、
①義務付け(強制)の程度
②業務性の有無(業務との関連性)
③時間的・場所的拘束性の有無
などの要素を考慮して決する。

【判例の紹介】
三菱重工長崎造船所事件
(平成12年3月9日最高裁判決)

<具体的事案>
 Y社では、完全週休二日制の実施にともなって、就業規則を変更して、所定労働時間を1日8時間と定めた。
 また、勤怠把握は、始業時に更衣を済ませて所定の場所にいるかどうか、就業時に作業場にいるかどうかを基準とすることになった。
 そのため、更衣所で作業服や保護具等を装着して準備体操場までの移動、始業時刻前の副資材等の受出し及び散水に要する時間、就業時刻後に作業場から更衣所まで移動して作業服や保護具等を離脱する時間など、これらの時間は労働時間として扱わないことになった。
 そのため、XらはY社に対して、当該行為に要する時間は、労働基準法上の労働時間に当たるとして、1日8時間を超える時間外労働に対する割増賃金を求めた。
<判決内容>
 労働基準法(昭和62年法律第99号による改正前のもの)32条の労働時間(以下「労働基準法上の労働時間」という。)とは、労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間をいい、労働時間に該当するか否かは、労働行為が使用者の指揮命令下に置かれたものと評価することができるか否かにより客観的に定まるものであって、労働契約、就業規則、労働協約等の定めのいかんにより決定されるべきものではない。
 労働者が、就業を命じられた業務の準備行為等を事業所内において行うことを使用者から義務付けられ、又はこれを余儀なくされたときは、当該行為を所定労働時間外において行うものとされている場合であっても、当該行為は、特段の事情がない限り、使用者の指揮命令下に置かれたものと評価することができ、当該行為に要した時間は、それが社会通念上必要と認められるものである限り、労働基準法上の労働時間に該当する。
 本件の事実関係によれば、Xらは、Y社から、実作業に当たり、作業服及び保護具等の装着を義務付けられ、また、装着を事業所内の所定の更衣所において行うものとされていたというのであるから、装着及び更衣所等から準備体操場までの移動は、Y社の指揮命令下に置かれたものと評価することができる。
 また、Xらの副資材等の受出し及び散水も同様である。
 さらに、Xらは、実作業の終了後も、更衣所等において作業服及び保護具等の離脱等を終えるまでは、いまだY社の指揮命令下に置かれたものと評価することができ、各行為に要した時間は、社会通念上必要と認められるものであるので、労働基準法上の労働時間に該当する。

 そのため、研修についても「それが強制であるか」「業務との関連はどうか」「受講場所はどこか」という観点から決せられるが、厚生労働省「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」(平成29年1月20日策定、労働時間管理に関するガイドライン)により、労働時間として扱う範囲をより広く考えるようになっている。
 同ガイドラインでは、

「休憩や自主的な研修、教育訓練、学習等であるため労働時間ではないと報告されていても、実際には、使用者の指示により業務に従事しているなど使用者の指揮命令下に置かれていたと認められる時間については、労働時間として扱わなければならないこと」

とされている。
 つまり、当該研修が労働時間かどうかについては実質的な指示があるか否かが重要な判断要素となる。
 すでに、労働時間については「働き方改革関連法」の一部として労働基準法の改正により上限規制が設けられ(平成30年6月成立、平成31年4月1日施行(中小企業は平成32年4月1日施行))、労働時間の削減は多くの企業で課題となっている。
 一方で、若手を中心とする労働者のスキルアップ・技能向上・キャリアアップに向けた自主的学習についてもまた課題となっている。
 労働時間を減らすことはそれ自体が目的ではなく、時間当たり生産性を高めるための手段の一つにすぎない。そうであれば、労働時間ではない形でスキルアップするための方策を企業は検討する必要があり、その一環がHRテクノロジーの示唆に基づく個別マッチングによる研修の提供なのである。しかし、これも労働時間と認定されてしまえば、結局は労働時間の上限に服することとなる。
 労働時間の枠外として捉えるのであれば、同研修はあくまで「本人のキャリアにとって重要であると思われるものを任意で提供」する形として、本人の自律的学習を支援する任意参加型であるという位置づけを明確にし、当該年度の短期的な人事評価にも用いない(長期的には、形成されたスキルにより評価することは可能)制度設計にすべきである。ただし、形式だけ任意にしても、実態が強制されているようなものであれば無意味である。
 重要なのは、「労働時間隠し」として行うのではなく、「真にキャリアアップを望む労働者に対して、法律の枠内で企業は何を提供できるか」という視点で考えるべき、ということである。

★ここには大きな論点が潜んでいる。(末尾の「論点8」を参照)


論点1

★「あるべきキャリア」を考えるにあたり、組織戦略の観点から「全体最適」を視野に入れながらも、いかにして「個別化人事」を実現するか、両者のバランスを取るための行動指針のようなガイドラインが必要である。

論点2

★出向の要件のうち「③職業能力開発の一環として行う」に該当するとされるケースを増やすべく、具体的なHRテクノロジー、HRソリューションの活用事例を具体的ガイドラインとして策定する。

論点3

★成果・業績評価を行うに際し、「評価の根拠となった事実は何か」を明確に提示しやすくするためにはHRソリューションの中にどのような工夫が必要か。具体的ガイドラインとして策定する。

論点4

★HRテクノロジーの内容自体を組合に理解してもらうための「説明資料」の作成プロセスや内容に関する具体的ガイドラインが必要である。

論点5

★従業員の評価および賃金決定(増額・減額)を行う場合、最終判断に至るプロセスを可視化するためにはHRソリューションの中にどのような工夫が必要か。具体的ガイドラインとして策定する。

論点6

★「労働者がその職務・地位にふさわしい能力を有していないこと」をどのようなデータに基づいて判断したのか、を明示しやすくするためにはHRソリューションの中にどのような工夫が必要か。具体的ガイドラインとして策定する。

論点7

★降格の前提となる評価の合理性担保のために「労働者の言い分を聞く手続きが取られている」とされるためには、具体的にはどのようなプロセスをたどり、どのような仕組みづくりをする必要があるか。具体的ガイドラインとして策定する。

論点8

★様々な研修やラーニングの受講を労働時間の枠外とすべく「本人のキャリアにとって重要であると思われるものを任意で提供」といえるためには、研修メニューの提供の仕方にどのような工夫を施せばよいか。指針を示すガイドラインが必要である。


開講講座のご案内

【講座の目的】
 「データとテクノロジーを駆使した新たな人事」への進化が真に求められています。ただしその「進化」の過程では、留意すべき事項も多々あります。特に昨今注目され始めているのが、個人情報保護とプライバシー保護の問題です。さらに労働法に関連しても様々な論点があり、多くの日本企業はこれらに対して十分な対策を取れていないというのが現状です。

 人事に関わる者として最低限押さえるべき留意点とは何か?それらをクリアするための方法と実践的なステップは何か?
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・HRテクノロジー領域のキャリア10年以上
・ロースクール修了
の講師が、テクノロジーの活用推進に主眼を置きながらも法的な問題点を「事業会社の人事担当者目線」で分かりやすく解説します。

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