岡本太郎先生の記憶
さてさて記憶を蘇らせながら、私のアート体験を話し始めます。
今回は、岡本太郎先生のお話です。
前もってお詫びしておきます。父のように日記を残していないので、私の記憶が不確かなうえいくぶん後から脚色してしまっているところもあり、それをお含みおき下さい。
10月12日の午前中にベネッセ倶楽部エリアイベントで、岡本太郎先生の嘗てのアトリエだった岡本太郎記念館を訪ねました。
小学生の頃以来60年振りのことです。庭は思い出しましたが、作品に関する記憶はありませんでした。
東京画廊の40年史を辿ると、岡本太郎展を1961年64年65年と3回企画しています。詳しくは年表をご覧下さい。
岡本太郎先生と父との記憶
ですので、私が父に連れられてアトリエに行ったのは、いずれかの展覧会の打ち合わせと作品の下見の時だと思います。
父は多くのアーティストのアトリエに、私と弟を連れて行きました。今でもそれぞれのアトリエの匂いは懐かしく、現代アートに使われるアクリル絵具に匂いがないはちょっと残念です。五感からなる体感に刺激が乏しい芸術は一抹の寂しさがありますね!
銀座の帰りや岡本宅を訪ねるとき必ず通るのが青山通りです。当時は路面電車も走り、道路をいまの幅に拡げたのは1964年の東京オリンピックのためです。母から聞いたのが、太郎作の彫刻がある児童館と国連大学のあたりで、山の手大空襲で亡くなった多く遺体をやいたらしいです。
子供にはこのような話しは記憶に残るものです。
岡本太郎先生と母との記憶
太郎先生と母に纏わるエピソードですが、山本宅の集まりの夕食中一度寝てまた起きるなり食べる先生の様子が印象的でした。母が弟と私に食事中余計な事をしてはいけないと躾ていたからだと思います。とにかく不思議な大人ばかりで、子供心にも手本としてはいけないと思いつつ楽しい体験ばかりでした。
次回は戦後の日本文化における岡本太郎先生の役割を考えみたいと思います。
これまでの記事です。よかったら読んでみてください。
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