戦後の日本文化における岡本太郎先生の3つの役割
今日は、戦後の日本文化における岡本太郎先生の3つの役割を考えてみました。
いずれも先生の思考の中心にあるのは、1930年から1940年までにパリで学んだ体験です。
これは東京画廊で1961年に展示しました。(タイトル不明)
まず1つ目は美術に関してです。
当時のパリは印象派の時代が終わり、抽象美術やシュールレアリスムの運動などが盛んで、色々な国からアーティストたちが集まる世界都市でした。太郎先生も彼らと同じことを体験し、彼らと同様に自国に持ち帰りました。
戦後間もなくその体験を美術界だけでなく、哲学や文学など他のジャンルの同世代に伝え、抽象的表現を目指すアーティストたちの中心的な存在になったのです。
私の父も1958年に訪ねたパリで抽象表現主義のアートシーンに遭遇し、しっかり被れて帰国しました。この時から東京画廊は世界の前衛を紹介することになります。
1961年に太郎先生の抽象画の作品展を開催しました。その時の作品を改めて見直しましたが、書家である祖父岡本可亭(魯山人の書の師)の影がうかがえます。
実は欧米の抽象表現主義のアーティストたちも日本の書から多くの影響を受けているのです。印象派が浮世絵から多くのことを学んだように、次の世代も書を学んでいることを見逃してはいけません。
64年65年の個展では作風が変わり、父で漫画家岡本一平の直接の影響はありませんが、明らかに漫画的なデフォルメされた具象的な表現が見られるようになりました。
あたかも抽象画を生涯描かなかったピカソのようです。
2つ目は縄文土器の再評価です。
太郎先生は1951年に東京国立博物館で縄文火焔土器を見て、翌年美術雑誌「みずゑ」に「4次元との対話ー縄文土器」を発表しました。
1万年前につくられた縄文土器の造形は日本列島にしかないと世間に知らしめた功績は、前衛を志す先生だからこそできたのです。日本人の縄文への関心は絶えることなく続き、今では世界的な評価をえるところまでになりました。
1938年にパリ大学民族学研究所のマルセルモースから民族学を学んだ成果だと思います。
そもそも民族学は1913年にロシアのスターリンによる「マルクス主義と民族問題」から端を発して、西欧の資本主義と植民地の問題に深く係り、1930年代のパリでは新しい学問として脚光を浴びてました。日本人では太郎先生の他に、雪の博士で有名な中谷宇吉郎の弟で数字者岡潔の親友である中谷宇二郎が民族学をパリで研究しています。
先生の縄文に関する論文は中谷からの影響があると教えてくれた人もいましたが、真偽のほどはわかりません。
前衛と民族学は真逆のように見えますが、20世紀後半からこの二つは深く結びつきます。1970年の大阪万博の太陽の塔はそのことの象徴とも言えるのです。
今回はここまでにしますね。
次回は、3つ目は岡本太郎先生と大阪万博のお話をします。
これまでの記事。
よかったら読んでみてください。
【東京画廊情報】次回展覧会 | 榎倉康二
2018.11.17 (sat) - 12.29 (sat)