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党と衆 忍ぶる玉梓 - 親王の弓削島 内親王の生口島 第3部 生口島(4)松浦党と村上海賊衆 - ”海狼伝”から 〈完〉
伊賀駒吉郎を初代校長と仰ぐ樟蔭学園と甲陽学院。
両校出身でともに国語教師であった両親の家庭に育った村上春樹。
神戸高校へ入学する年となる1964年(昭和39年)1月,新聞を読んでいた母の発した言葉が記憶に残る。
ああ,この子よう知ってるわ
田辺聖子が「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」により,第50回芥川龍之介賞を受賞したことを報じる新聞記事をみてのことであろう。
村上の母は,母校の後輩を見知っていたようである。
男性作家による“さむらい文化”の小説にはない,大阪弁による恋愛ものを好んで書いた田辺は,“女の物書きというのは,たいていヒトクセもフタクセもある”という。
そのような田辺が怖れたのが,“伝統ある「VIKING」の同人で,こってりした文体で廓(くるわ)ものを書く手練(てだれ)のエンターテインメント作家”と評した川野彰子(しょうこ)だった。
その彰子が,田辺が芥川龍之介賞を受賞した1964年に急逝したため,田辺は旅行先から赤いワンピースのまま,神戸市兵庫区にある宝地院に駆けつける。
安徳天皇の菩提を弔う浄土宗の古刹である。
ここで伴侶を失った川野純夫と出会い,生涯を連れ添うことになる。
純夫は軽口ながらも本音で田辺を褒めちぎり笑わせる。
あんたは天才,紫式部の再来や
天才小説家の田辺は,川野純夫こと“カモカのおっちゃん”の予言した通り,大阪弁による庶民のいきいきとした言葉で健筆をふるい,女流文学賞(第26回),菊池寛賞(第42回),泉鏡花文学賞(第26回)などを受賞する。
受賞歴を重ねた田辺は,賞を授ける側へと推される。
1987年(昭和62年)平岩弓枝とともに,直木三十五賞初の女性選考委員となる。
芥川龍之介賞の選考委員となった河野多恵子,大庭みな子ともども,1935年(昭和10年)の両賞の創設以来,初となる女性選考委員が4名誕生する。
同年7月に開催された,田辺が選考委員として初めて臨んだ第97回直木三十五賞の選考会。この時の受賞作品が,白石一郎「海狼伝」と山田詠美「ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー」である。
初の女性選考委員の就任と並び,この年の出版界には歴史に記録される事件が起きる。
村上春樹「ノルウェイの森」上下巻の刊行である。
社会現象ともいえる記録的な発売数を誇り,後に単行本,文庫本をあわせて1,000万部を突破する世紀のベストセラー作品の上梓である。
受賞作「海狼伝」は,中世末期の瀬戸内海で名を馳せた,村上武吉の率いる村上海賊衆(能島村上氏)の時代を描いた海洋冒険小説である。
村上海賊の裔ながらも対馬 松浦党に育った主人公の成長物語 “Bildungsroman” である。
「海狼伝」で,白石は“党”という集団の属性について述べる。
がんらい「党」というのは蔑称にちかいひびきをもつ。中央の権門勢家が地方に割拠する弱小の武士団を,上から見おろし,ひっくるめて「党」と呼んだ
松浦郡一円に住む武士たちも敏感にそれを知り,自ら党を名のることはしなかったが,元軍が大海を渡って来襲した文永・弘安の役いらい,彼らは自衛のために血盟を結び,自ら「松浦党」と称することを憚らなくなった。ひらき直ったのである
ひらき直った挙げ句に名のったという“党”のもとを去り,主人公 笛太郎は自らのルーツである“衆”の支配する芸予諸島へと向かう。
笛太郎の父は,河野家に属する水軍十八将の一人で,村上海賊衆の尖兵として,朝鮮,明,南方を渡り歩いたという。
白石は,村上海賊と略さず,村上海賊衆と記す。
松浦の“党”に対し,村上海賊は“衆”なのである。
この村上海賊衆の本拠地 芸予諸島の海域へ入り,笛太郎が最初に上陸するのが伯方島。
島の中央にある宝股(ほこ)山からの眺望は“唐天竺(てんじく)にもあるまい”といわせる。
この山頂から東に見えているのは岩城(いわぎ),生名(いきな),佐島(さしま),弓削(ゆげ)の島々である。その左側の沖合には緑の林に蔽われた生口島(いくちじま)が横たわっている。西北へ眼をうつすと大三島(おおみしま)だ。南は大島,どこを見ても島,また島である
徳仁親王が視察した弓削島。
友愛の水の通る岩城島,生名島,佐島。
分水点であり法然上人と式子内親王の忍ぶ恋の伝承を守る生口島。
「兵庫北関入舩納帳」にみられる,塩を積荷として兵庫の港へと向かった船舶と警固の海賊たちが,航海に繰り出す島々が一望である。
「海狼伝」にも,村上武吉の命により,塩船を采配して堺へと向かう場面がある。
できるだけ高値に塩を売り,帰路は食料,武器,硝薬などを買い,畿内に関するさまざまな情報を仕入れて,島へ戻ってきたのである
積荷の1割とされる帆別銭とともに,流通商品として交易される塩が,村上海賊衆の財源をなしていることを記述している。
白石は,海賊としての生き様を,まだ若い笛太郎に悟らしめる。
「海狼伝」の描く松浦党の海賊は,“ひらき直る”ことにより“さむらい文化”を脱し,あらためて,海賊衆としての自我を取り戻したのかもしれない。
この物語の描く冒険とは,まさに“衆”として「航路」を拓く「VIKING」としての生き様であろうか。
おもしろく生きるのが,この世でいちばんじゃな。つまり人の世は遊びぞ。宮仕えなどして暮らす人間には遊び心がない。それは哀れなもんじゃて
それにくらべ海賊ぐらしは毎日が遊びよ。船を乗っとるのも遊びと心得れば,しごとに励みもでる
1981年(昭和56年)に,学習院大学文学部史学科の学生として,卒業論文「中世瀬戸内海水運の一考察」の研究のため弓削島を視察された徳仁親王。
お印は“梓”。
古来,使者は手紙を梓の木に結び付けて持参した。
後に相手からの手紙そのものに敬意を表して,“玉梓”と称するようになったともいわれている。
木目が細かいため印刷用の版木としても使用されたことから,書物を出版することを“上梓”ともいう。
時を経て2024年(令和6年)に,学習院大学文学部日本語日本文学科を卒業された愛子内親王。
卒業論文は「式子内親王とその和歌の研究」である。
お印は“ゴヨウツツジ”。
別名“シロヤシオ”とも称され,純白の花を咲かせる。
岩手県南部の太平洋側から四国にかけての山地に生育し,四国カルストが分布の西南限にあたる。
花言葉は“愛の喜び” “上品”。
枝先に5枚の葉が輪生するツツジ科の小高木である。
この第1部から第3部まで11回におよぶ話も,5つの作品・史料との偶然の出会いにもとづいている。
柴田翔「されど われらが日々-」
村上春樹「ノルウェイの森」
林屋辰三郎「兵庫北関入舩納帳」
田辺聖子「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」
白石一郎「海狼伝」
古書店で一冊の古本にからみつかれたことからはじまり,からみつく忍ぶる思いを,玉梓に託して語らせる。
その葛蔓を解きはなつのは,中世の瀬戸内海をおもしろく船乗りした海賊たちが矜持とした,自我あるいは自己の立脚点なのかもしれない。
忍ぶ恋の皇女 式子内親王にからみつかれた田辺聖子。
大阪樟蔭女子大学の田辺聖子文学館には,パネルにしたためられた田辺の大阪弁が、威勢よく鳴りひびいている。
ただしいことを信条にしたらあかん……たのしいことをしたらよろし
(おわり)