不果志の弁明 ー 木村久夫の余白,菅季治の遺稿(前編)
獺祭魚たる書斎から数冊を旅行鞄にしのばせ,避暑地での耽読。
定宿での思索と散策にふける至高の時間は,幼少期の本への惑溺を“読書の祝祭”として,あこがれ,追体験するひとときなのかもしれない。
浅間山を眺望する軽井沢山荘を仕事場とした,小説家にして学習院大学文学部フランス文学科 教授 辻邦生(1925~1999年)は,このような読書経験を “懐かしい読書” と称し,自身の原体験で知り得た “小説の無頼の面白さ” について回顧を続ける。
こどもの頃から書物に囲まれた生活にあこがれ,旧制高校生のバイブルとされた倉田百三 “愛と認識の出発”,阿部次郎 “三太郎の日記” などを,中学生の頃に読み了えていたという辻。
図書館での純粋な “読む状態” を謳歌したためか,現役での旧制高校への進学はかなわず,浪人生活を1年間送ることになる。
しかしこの1年が,当時の学生たちの命運を分ける。文科志望の辻にとっては,なおさらであった。
1943年(昭和18年)10月2日 “在学徴集延期臨時特例”(勅令第755号)が公布され,理工系,医学系,教員養成系課程などの在籍者を除く満20歳に達した一般学生・生徒の徴兵猶予は停止。同年10月21日には明治神宮外苑競技場にて文部省主催による“出陣学徒壮行会”が開催される。
徴兵猶予の適用を受けるべく,辻は急遽,理科に志望を変更する。
招集令状との競争に打ち勝った辻は,1944年(昭和19年)松本高等学校理科乙類に入学する。
戦地へ赴くことを免れた辻。“白樺のそよぐ高原”と“鋸歯状に峰を連ねるアルプスに憧れた”松本で,読書と山行に横溢した青春の日々を過ごす
徹夜での読書にふけり,授業をサボることもしばしば。
とりわけ傾倒したトーマス・マンが,ギムナジウムを二度落第した系譜をたどり,同じく2回ドッペルことになった辻は,1年後輩の北杜夫に卒業を追い越されてしまう。
しかし,その機運もあって,同時期にインド洋,満州などの戦地で敗戦を迎えた学徒兵たちとは,異次元の世界に身をおくことができた。
かようになつかしむ辻ではあるが,己の運命に悲嘆し出征していく仲間たちと,盃を交わし,吐露する言葉を受けとめた記憶が,作品にも影を落とす。
1919年(大正8年)に創設された松本高等学校は,新潟,山口および松山の各高等学校とともに,ネームスクールのさきがけであるが,幻のナンバースクール “第九高等学校” としての可能性も含め,開校までには波乱の経緯を有する。
他県および長野市との激烈な誘致合戦に三度目の正直で勝利をおさめた松本市の悲願の結実であった。
1899年(明治32年)高等学校の2校新設が決まると,長野県も名乗りを上げたものの,第六高等学校は岡山市(前文部大臣 犬養毅の出身地),第七高等学校造士館は鹿児島市(当時の文部大臣 樺山資紀の出身地)に,それぞれ軍配が上がる。
1908年(明治41年)第八高等学校が名古屋市に設置された後,第九高等学校の新設が決まると,再び熾烈な誘致戦に挑んだ長野県は,内定を勝ち取る。しかし,桂内閣の退陣にともない,この内定は無期延期の憂き目にあう。
1917年(大正6年)4校増設に際して,新潟,山口および愛媛の3県が県庁所在地への誘致に成功し,新潟高等学校,山口高等学校および松山高等学校の創設が決まる。
3度目の誘致が奏功した長野県。今度は,松本市と長野市による宿敵同士の決戦を経て,松本市が勝ち星をあげる。
かようにして,新潟,松本,山口および松山に,官立高等学校が創設される。
内定までおりた“第九高等学校”の校名は,もはや名乗ることを許されず,新設校は,ネームスクール(地名校)として,全国に増設されていく。
四国には,官立の3年制高等学校が2校新設され,松山高等学校につづいて,1923年(大正12年)高知高等学校が開設される。
松本,松江,松山および高知の各校は,弘前,佐賀とともに比較的入学しやすい高校との世評を詠んだ替え歌である。
都落ちの自嘲をにじませつつも,ネームスクール生の気概と愛校心を込めて,詠い継がれたのではなかろうか。
https://tannoy.sakura.ne.jp/worldheritage.pdf
丹野義彦「旧制高校を世界遺産にしよう」
辻が,信州の高原,北アルプスに憧れて松本高等学校を選択したごとく,俳句をたしなむ青年が,松山高等学校の門をたたいた。
1923年(大正12年)に結成された “松高俳句会” があり,後の国文学者 西垣脩(大阪府立住吉中学校時代から句会に参加)のごとく,受験の際の口頭試問で “「松高を選んだのは俳句修行のためだ」と答えて試験官を驚かせた” との逸話もある。
同中学からは,永野萠生,茨木童子も入学し,松高俳句会の “住吉中学トリオ” とも呼ばれた。
松本高生が,上高地,北アルプスを遠歩したごとく,松山高生は,面河渓 (おもごけい),石鎚山を探勝した。
松高俳句会に2年生から参加した安藤光雄(号“未央”,香川県立三豊中学校出身)は,1931年(昭和6年)秋の面河渓旅行をしたためている。
https://tannoy.sakura.ne.jp/matsuyama.pdf
丹野義彦「旧制松山高等学校を歩いてみよう」
石鎚山(1,982m)系に源を発し土佐湾にそそぐ仁淀川は,吉野川,四万十川に次ぐ,四国第3位(流路延長124㎞)の河川。高知側から遡行して愛媛県側に入ると面河川を名乗る。
松山高生にとって誂え向きの遠歩先たる面河渓は,面河川(仁淀川)の上流部,上浮穴郡久万高原町にあり,亀腹,関門などの奇岩,断崖,瀑布など,景観の変化に富む名勝。
この四国有数の景勝地は,高知高生にとっても格好の旅行先の一つ。
石鎚登山の行路であり,休暇中の避暑地でもあった。やはり,松本高生にとっての上高地,軽井沢を彷彿させる。
1939年(昭和14年)7月末から8月上旬にかけて,面河渓を避暑地とし,宿舎 “渓泉亭 ” (けいせんてい)にこもり,読書三昧に徹した高知高生がいた。
辻邦生と同じく,1年の浪人を経て入学するも2回ドッペル。この落第生をして,学究の徒へと覚醒させたのが,2年生の夏の “面河経験” である。
7年後,刑の執行間際に28年の生涯を振りかえり,“私の一生の中,最も記念さるべき” 時として,“面河経験” を書き遺すとは,往時,寸毫も思い得なかったであろう。
辻邦生もまた,“戦没学生の手記” を通じて,この短折した学徒の “痛恨の記録” を読むにいたったのであろう。 (つづく)