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犬が腰振るような月夜の日、幸尾は珍しく夜中に目が覚めた。窓から差し込む月の

 犬が腰振るような月夜の日、幸尾は珍しく夜中に目が覚めた。窓から差し込む月の光が明るかったからかもしれない。白く射すような光線が一直線に強く、納屋に向かって差し込んでいた。なぜかいつもより暖かく、しんと静かな夜だった。幸尾はむくりと体を起こすと、窓から外をのぞいた。すると、そこには一面の真っ白な世界が広がっていた。新雪に反射した月明かりがキラキラと夜を照らしていた。尋常ではない明るさだ。こんなに明るいというのに、父も母も、兄も姉もぐっすり眠っている。幸尾は、月明かりと雪景色に興奮して外へ飛び出した。分厚い半纏を着て、赤い長靴を履いて。目の前に、白く輝く世界が一面に広がる中、木の幹と葉っぱはくっきりと黒いシルエットで浮かび上がり、雲ひとつない夜空は月の明るさも手伝ってすこーんと深い青色をしていた。灯火は必要がなかった。真夜中だというのに、怖さは微塵も感じなかった。
 長靴を履いた幸尾は、ザクザクと新雪の中を進んだ。まっさらな白銀の中、点々と幸尾の足跡だけがつき、濃淡のブルーの世界の中で、月だけがその光景を眺めていた。雪が止み終わった後の、風もなく、少しの音さえもしない何もかもが静止した世界は、普段よりなぜかあたたかい。幸尾は高揚感に舞った。小さくてぷくぷくのほっぺたを桃色に染めて、真剣な眼差しで、ザクザクと、おチビは道なき雪道を進んだ。家から離れてしばらくすると、赤い花がぽつぽつと増え始めた。白い雪の中で点々と散在するそれは、こすっても落ちない赤い染みのように見えた。
 やがて幸尾は、川べりまで辿り着いた。夢中で雪を踏みしめて来たからか体中が暑く火照っていた。風がない夜、木が身に纏った葉を揺らす事もなく、雲がない夜、星が姿を消す事もない、全てのものが寝静まったかのような静寂した夜に、川だけがさらさらと動きを止めていなかった。
 頭上に生い茂る木々のせいだろう、河原に降り積もった雪は少なかった。小さな石ころの上に降った雪たちは、でこぼことした雪面を作り上げ、淡くうっすらとした小さな影が雪の上に浮かんでいる。河原に作り出された複雑で神秘的な光景に幸尾は見入った。その時だった。
「なあ、相撲やらんか?」
 突然、背後から声をかけられた。幸尾がビクッと体を震わせて後ろを振り返ると、幸尾と同じくらいの年頃の子供が一人、雪景色の中立っていた。子供は丈の短い赤い着物を着て、少し緊張した面持ちで幸尾を見やっている。雪が積もっているというのに、足元は草履だった。
「すもう?」
 幸尾は答えた。

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