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小さなお姫さまアメリカへ
アメリカへの入国審査ではおしっこをちびりそうだった。羽田でのチェックインから一連の手続きを全て前に並ぶ人の見よう見まねで通り抜けてきた彼女にとって、米国への入国審査は予想外の事態が発生してしまった。それまでは、チェックインから荷物検査、入国審査、搭乗ゲートでの航空券の提示、航空機内でのお手洗い、シートベルトをしめるタイミング、食事と飲み物の選択、税関へ提示する小さな紙、といったありとあらゆる流れを、全て周りの様子を見て対応してきたのだ。もちろん、この入国審査も前の人の行動を真似して切り抜けるつもりだった。しかし、入国審査に並ぶ待機列が長すぎたため、列が彼女の手前で切られ、彼女を先頭に別の新しい窓口へ移動させられてしまった。前に並ぶ人の手順を見て参考にする事は不可能となってしまったのだ。Shit!
窓口の審査官は、無愛想で体格のいい強面の男性だった。とりあえず、パスポートは渡すだろうと考え、彼に渡した。彼はパスポートを受け取ると、何も言わずパラパラとめくり、下を向いたまま短く何か言った。何を言われたかわからなかったが、入国審査にまつわるエピソードで頻繁に聞く「滞在の目的は仕事か、観光か」を聞かれたのだと思い、「サイトシーング」と答えた。(ここで「ビジネス」と答えると大変な事態になることも知っていた)だが彼は大きなため息をついて、親指を立てて出してきた。グッド。何がグッドなのか、彼女が混乱していると、彼は「そ・こ・に、親指を、押・せ」と動作で示してきた。彼が何を言わんとするかやっと理解すると、震える親指で黒く小さな画面に指紋を押した。数秒たった後、パスポートを無造作に返されて、彼は「ネークス!」と叫んだ。彼女の番は終わったらしい。彼があんなに不機嫌だったのは昨夜恋人と別れたばかりなのだろう、と縮んだ心臓を押さえながら考え、荷物受け取り場へ向かった。ここでも、他の人が先行くルートの後を付いて行った。
ニューヨーク市内へは、事前に調べていた乗り合いシャトルバスで移動しようと決めていた。タクシーは高いし、地下鉄は難易度が高そうだったためだ。バス乗り場では、黄色いベストを着た受付係りの太ったおばさんに「ニーハオ」と挨拶されながらも、なんとか自分の宿名を伝えてシャトルバスに乗る事ができた。
市内へ向かう道中にて、少々荒い運転に揺られながら彼女が終始気にしていたのは、チップを運転手に渡すべきなのかどうか、という事だ。次々にホテル前で降りていく乗客の真似をしようとしたが、後部座席に座ってしまったため、彼女の席からは何も見えなかった。運転手に何も渡してないようにも見えるし、何か渡しているようにも見える。車内は静かだった。お礼を言って降りていく乗客と運転手が少し挨拶を交わすくらいだ。彼女はチップを渡さないよりは渡したほうがいいだろうし、日本人はチップを忘れがちで嫌われると聞いた事もあり、お礼の気持ちを伝えるための手段だと思って、小さい財布からさっき両替した一ドル札を取り出して握った。
マイクを通して彼女の宿名が伝えられてバスは停車した。スーツケースを転がしながら運転手へお礼と共にチップを渡した。それでも直前までこれは渡すべきなのか迷った。不慣れな文化過ぎて、哀れみによるものだと思われないだろうか、とか、彼の自尊心を傷つけたらどうしようなどと考えてしまった。だが、お礼の気持ちなんだと思い直してなんとか渡した。さりげなく、他意はございませんよ、と伝わるように。この時なぜか彼女の後頭部では、もう一枚映写機のフィルムが重なるが如く、公園に座る太宰のイメージがチラチラとしていた。
チップを渡すと、運転手は「ワオ!ありがとう!小さなお姫様!いい一日を!」とハイテンションで見送ってくれた。先に降りた老夫婦には、こんな反応はしていなかった。ここまで歓喜してくれるのを見ると、チップは渡さなくても良かったのだろうか。もしくは、チップを忘れがちな日本人がチップをくれた事が予想外でつい高揚してしまったのだろうか。なんにせよ、バスは陽気に走り出した。天気は曇りで空気は冷たかった。醜いアラサーの小さなお姫様は、ブルッと肩を震わせた。