ヤマトノミカタ#80 「無音の世界」
音も無く降り続く雪、時間が止まったかのようなモノトーンの世界。
ここが奈良であることを忘れてしまうような幻想的な空間。
奈良市内から車で1時間かからない所にこの世界が広がっている。
宇陀市の龍王ヶ渕、この映像を撮影したのは七年前。
私はこの奈良にあって、はじめて音の無い世界を経験したのではないか。
降り続く雪の音は、無音という音だった。
龍王ヶ渕。榛原の旅館に貼られた古い宇陀市の観光ポスターでその存在を知った。
国道を離れて狭い道を走り、山間の集落を抜けると龍王ヶ渕の駐車場に着く。
お昼頃だったと記憶しているが、到着した時は誰もいなかった。
非日常の風景に囲まれ、誰に気を使うことなく撮影する時が最も楽しい。
テレビカメラマンとしてロケスケジュールの中で撮影する場合は、必ず時間の制約がある。
番組のロケでは、いい映像を撮影することが目的ではあるが、それは、スケジュール上での話。たくさんの人が関わって1日のロケが組まれているので、スケジュールを守ることがすべてにおいて優先される。
カメラマンは画のことしか考えない、ディレクターは演出のことで頭がいっぱい、制作進行は時計と財布しか見ていない。
でも、この日はテレビ番組のロケではない。私が納得出来るまでここにいて、撮り続けることが許される。テレビ番組の現場から離れている私だが、時間を気にしながら撮影する習性は深く染み付いていて、時計を持たない自由には、なかなか慣れることが難しい(笑)
長くその場に身を置くことで、何が変わるのかと言えば、風景の見え方が変わってくる。今まで見えなかったものが見えてくる。言い方を変えると、撮りたいものがより深まってくるのだ。
確かに第一印象は大切ではある。その場に立って、最初のワンカットは、その時に最も心が動いて撮りたいと思ったカットであることには違いがない。
でも、この場所で3時間ほど撮影を続けると、たくさんのカットになる。この時は100カットを超えていた。
で、編集時にそれらのカットを改めて見るわけだが、この場所に限らず、大抵は最初のカットは没になる。
第一印象でワクワクしながら撮影したカットは、編集時には採用されない。
もし、プロとアマの違いがあるのなら、風景の核心を見極める目があるかどうかだと思う。目の前に広がっている風景の中で、すべてを象徴するような部分を見極めて切り取れるかが重要になる。
昔、久米宏の「ニュースステーション」という人気番組があった。
紅葉を特集したコーナーで、ひとつの紅葉スポットをワンカット(FIX:固定)で紹介するという企画があった。そのワンカットでいくつもの紅葉スポットを紹介していた。全体を映す場所もあれば、川面に映る紅葉の色だけ表現する場所もあり、カメラマンが試されているような企画だった。
見たこのない絶景を前にした時、カメラマンとしてワクワクする気持ちはとても大切で、その心の高まりを映像に反映させる作業が撮影の入口である。
そして、心を冷静にして被写体を観察し、この風景を象徴している部分はどこだろうかとじっくり考えることが撮影の行き着く先である。
その切り取りの中で、他の誰もがやるような撮影手法で止まるのではなく、私でしか見えない切り口を探すこと、そこへ到達出来る技術と感性を持つことがプロの条件だと確信している。
言葉では簡単でも、実際にやるのは難しいが。
雪の龍王ヶ渕を撮影した時もこのような心境だった。
ワクワクを映像にする作業から、風景の中から切り取る映像を探し出す作業。
雪の中で常に自問自答し、歩き回って心のセンサーを発動させる。心が大きく動くのはどこだろうか、目で見てカメラで切り取って、心の動きを感じて、取捨選択を繰り返す。
そんな作業で撮り続けたのが、この記事で紹介する映像詩になる。
余談だが、この雪の龍王ヶ渕を撮影してから、ここを撮ることを避けるようになった。確か一度だけ再訪した程度。それは、ある張り紙を見たからだ。
「地域住民の迷惑になるので、早朝や深夜に車は控えてください」
そんな内容だった。宇陀市が観光地として今も紹介している観光スポットではあるが、アクセスするための道路は村内を通る狭い生活道路が一本しかない。
当然、民家の横を通ることになるが、地域住民には歓迎されていないことが、張り紙から伝わって来た。
この経験は七年目のことなので、現状は全く知らない。地域住民に直接話したわけではない。でも、たった一人でも不快に思う人がいるのなら、考えなければならない。その住民をいない者として無視して撮影するのかどうかを。どこまでなら許される範囲なのかを。撮影のために、何を優先して、何を捨てるのかを。
車の速度を落とす程度の配慮でいいのか、車は国道に停めて徒歩でアクセルすればいいのか、昼間なら問題ないのか。
答えはひとつではない。何が正解で間違っているのかではなく、あなたはどうなのですかと、張り紙は問いかけてくる。
私がテレビ業界に入った四十年ほど前の話だが、テレビ番組で世間に知られていない場所を紹介する時には一定の配慮があった。当時のテレビスタッフはテレビの影響力の大きさをよく理解していたからだ。
テレビ番組で紹介することで、迷惑をかける人がいないだろうかと、そのように考える義務があると自覚していた。
今のテレビはそんなことはあまり考えていないようだが、個人がSNSで発信する時代であっても、放送することによるハレーションを想像出来ないのであれば、テレビマンであっても素人のYouTubeとなんら変わらない。
映像の力をテレビマンが自覚せずに、なんでもかんでも放送している現状がテレビ番組の信頼を失い、凋落が加速する原因の一つだと私は思う。