ヤマトノミカタ#8「神様の姿」
「神様の姿」
奈良は神仏と人間の距離がとても近い。日常の中で無意識に神仏に向き合っていることが多い。仏様のお姿は、お寺の仏像という具体的なイメージがある。では、神様のお姿はどのようなイメージだろうが?神話に出てくる天照大神を連想する人もいるだろうし、形の無い抽象的なイメージを持つ人もいるだろう。自然そのものを神様として信仰するならば、葉っぱ一枚、石ころひとつにも神様を見ることは出来るだろう。
では、私の場合はどうだろう。
カメラマンである私の神様のイメージといえば、神社に霧が立ち込め、朝陽が木々の間から束になって差し込み、その奥に神様の気配を感じる。突然に吹く少し冷たい風が通り過ぎた後、逆光に照らされて神様がお出ましになる。そんなビジュアルイメージだった。
でも、現実に神様を感じた時はそれとは全く違った状況だった。
私は奈良を撮影する中で何度か神様と出会って話をしたのだ。いや、冗談ではなくリアルな体験だ。
神様は霧の向こうにいらっしゃるわけでは無い。
少し長くなるが私が初めて神様とお会いした時のエピソードを紹介する。
私はNHK番組で2〜3分のコーナーを撮影していた。映像詩「やまとの季節七十二候」というタイトルで、映像とピアノ曲だけで構成されていた。ナレーションは無く、文字テロップなどの情報は最小限。映像と音楽だけのコーナーだった。ピアノを演奏していたのが川上ミネさん。すでにNHKの番組を何本も担当されていたプロの作曲家でありピアニスト。愛・地球博の音楽監督として世界で評価されている。映像を担当した私は、テレビカメラマンではあるが、全く無名の存在。このコーナーの主役は間違いなく川上ミネさんであり、その存在なくしてこの企画は成立しなかった。
放送は2年半続き、好評の中で最終回を迎えた。
私は今年の桜が終わるまで番組をあと一ヶ月だけ継続して欲しいと懇願したが願いは叶わず、3月30日の放送ですべて終了となった。
せめてあと一回、4月第1週に桜の放送で終わりたかった。
私の願いなど門前払い、自分の力無さを痛感して、気分的にも深く落ち込んでしまった。でも、コーナーが始まった頃を思い出すと、現実が見えてきた。
それは、このコーナーの主役は川上ミネさんのピアノであること。
映像はそれほど重要ではなかった。視聴者はピアノ曲を楽しみにしていたのだ。私の心の中ではそのような結論に落ち着き、私は自分が情けなく、惨めな気持ちになった。もう撮影はやめてしまおう。生きていても仕方がない。こんな気持ちで病気を抱えながら生きていけるはずがない。当時の私は癌の再発という問題に苦しんでいた。コーナー打ち切りをきっかけに自分の人生を自分で終わらせる事を考え始めた。
きっとその時の私はとんでもなく暗い顔をしていたに違いない。
思い詰めた私は日が沈んだばかりの平城宮跡にいた。
突然、初めて会う青年が私にスマホを見せるのだ。青年はロードバイクに乗り、本格的なサイクルジャージ姿。その場の雰囲気に似合わない青年だった。
私はそのスマホを見た。スマホの画面には「放送を毎週楽しみにしていました」
一瞬事情がよく理解出来なかったが、青年が番組の視聴者であることは分かった。私から話しかけても会話にならない。そう、青年は耳が不自由だったのだ。
スマホで筆談して感謝の気持ちを素直に伝えた。青年は笑顔になり、ロードバイクで平城宮跡の闇の中に消えていった。突然の出来事だった。
青年と別れてから私は冷静になり頭の中を整理した。
青年は音が聞こえない、それでも番組を毎週楽しみにしていた。
青年にはピアノが聴こえない、私が撮影した映像しか届いていない。そうか、そういうことか!
青年と出会うまで死ぬことを考えていた私の心が少し穏やかに優しく変わっていた。
青年との短い筆談から、これからも撮影を続けようと思えるようになった。
客観的に考えると、そもそもこんな所にロードバイクの青年がいるなんてあまりにも不自然過ぎる。で、このタイミングでこの展開。話が出来すぎてはいないか。
私は、その時にある神社の宮司さまの言葉を思い出した。
「神様は普通の人の姿で現れて人々を救済する」
あの青年は神様だったに違いない。疑うことなく神様だった。
そして、どん底だった私を救ってくださり、前を向かせてくださった。
私だけではない、誰もが知らぬ間に神様と会っているかも知れない。奈良とはそういう場所なのだ。