ヤマトノミカタ#15「雲海に浮かぶ神地」
一年に一度あるかないか、大和盆地が雲海に隠れる時がある。
夜明けが近づくにつれて、低く垂れ込む雲が次第に厚くなり、東大寺大仏殿や興福寺五重塔が雲に覆われ姿を消す。
そんな様子を若草山三重目(山頂)から何度か撮影する幸運を授かった。
御蓋山は春日大社の第1殿に祀られている祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白い鹿の背に乗って天から降り立ったとされる神聖な山。狩猟伐木禁止の禁足地となっている。
私は大和盆地を覆う雲海を撮影していて、不思議に感じることがあった。
どれだけ雲が厚くなろうとも、御蓋山が雲に隠れることはなかったのだ。
信仰の対象である御蓋山が目の前から完全に消えることはなく、撮影場所の若草山三重目が雲に飲み込まれても、御蓋山の峰は雲海に浮かんでいた。
私はそんな御蓋山にただならぬ力を感じた。神のご威光だろうか、おかし難い威厳が雲海に浮かぶ御蓋山にはあった。
理屈ではなく、これは特別な一瞬なのだと、撮影にも力が入った。
私は、単純に若草山から見える雲海を撮影することだけが目的で、深夜に若草山を上ってシャッターチャンスを待った。その時には想像すらしていなかった風景が目の前に現れたのだ。
この映像を見て、春日大社元権宮司の岡本彰夫先生はおっしゃった「御蓋山は浮雲峰(うきぐものみね)と呼ばれている。その言葉の意味が映像から分かった)」
神域である峰が雲海に沈まずに浮かんでいる。まさに、御蓋山浮雲峰。言葉の通りの風景だった。
この名前を付けた人も私と同じように雲海に浮かぶ御蓋山を見ていたに違いない。
そう思うと、奈良時代から続く歴史の上に私が存在しているようなイメージが頭に広がった。
私はこの風景を撮影しているのではなく、姿の見えない誰かに導かれてここにいる。
撮っているのではなく、撮らせて頂いている。
風景の上辺だけではなく、その奥にある普段は見ることの出来ない核心を見せて頂いている。
自分がなぜ生きていて、何のためにここにいるのか、浮雲峰を撮影していて、その答えが見えてきた。
末期癌を宣告された私が、死を覚悟したにも関わらず、こうして生きている理由に手が届きそうな気がした。
もし私が、単にテレビカメラマンとしてこの雲海を撮影していたなら、鹿と雲海をひとつの画面に入れることだけを考えて右往左往していたに違いない。
実際、鹿は全く眼中になかった。鹿の存在すら忘れて浮雲峰に釘付けだった。
目の前の何を見て、何を切り取るのか。神様に見られている、神様に試されている。
風景のその奥にある核心にレンズを向けることが私の目指す撮影だと悟った。