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ヤマトノミカタ#3「二上山の鞍落ち」

「二上山の鞍落ち」
先輩カメラマンから教えられる言葉は宝の山だった。
「春と秋の2回、檜原神社の鳥居から見える二上山に太陽が沈む。それこそが大和を象徴する風景だ」
撮影助手で貧乏生活だった私にはその言葉の深い意味は理解出来なかったが、撮影メモには赤ペンで大きく書き込んだ。実際、檜原神社での鞍落ち撮影時の雰囲気は神がかっていて、話すことすらはばかられた。カメラの隣でモニターを見ていたディレクターは祈りの表情で画面に合掌していた。
太陽が雄岳と雌岳の間に沈んで二上山が残照に浮かび上がった神々しさは、日常生活の中では感じることの出来ない特別なもの。カメラが止まった瞬間、スタッフが深呼吸するような、そんな体験だった。
私は助手からカメラマンとなった後も大和路の風景を撮り続け、それは現在に至るライフワークとなっている。
その過程で、太陽と大和の地理について体験から多くを学ぶことになる。
例えば、春分の日に二月堂から見れば太陽と大仏殿の鴟尾が重なって西の空に沈む。
同じ日、春日大社の参道からは神山である御蓋山から太陽が昇り、興福寺の南円堂に沈む。
季節の節目と太陽の位置に特別な意味があることを撮影から知る。
だから、ただ単純に二上山に鞍落ちすることだけに意味があるのではなく、どこからその太陽を見た風景であるのかが、とても重要になる。二上山の鞍落ちだけを見るのではない。三輪山から昇った太陽が二上山へと沈む、その太陽の道を基準に大和をいう国が造られていたのではないか、目の前の風景のその奥の奥に思いを馳せる。
そんなことを突き詰めようと思い始めた頃に、氷室神社大宮守人宮司とご縁をいただいだ。
大宮宮司は毎朝の散歩で奈良公園周辺を歩き、どの位置から見れば御蓋山山頂から太陽が昇るのかをご自身の足で調べられていた。宮司曰く「春日野は祈りの場所だったに違いない。その祈りは御蓋山から昇る太陽に捧げられていた」確かに、奈良公園周辺の社寺は太陽の運行に関係して建てられていると撮影を通して感じていた。
平安時代と違って、奈良時代には方位磁石が無かった。地図上の東西南北の位置関係よりも太陽の運行を基準に都が作られたと、奈良時代から残る建物から感じることが出来る。京都と比べて南都は太陽を信仰する原始の宗教に近いのではないか。
現在、東大寺では七重塔があったとされる場所で発掘調査が進んでいる。冬至にその場所から見ると、太陽は興福寺の五重塔と重なるように沈んでいく。
ある時、私は気付いた。冬至の朝は、奈良の大仏様から見ると御蓋山からから太陽が昇るのだ。
人間の目線だけで考えては真実が見えないかもしれない。ここは神仏を中心とした都。
ということは「二月堂から見て」ではなくご本尊十一面観音様から見て、春分の日には太陽と大仏殿の鴟尾が重なると理解した方が正しいのかも知れない。太陽の運行を基準に建物があるのではなく、神仏が位置しているのである。

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保山耕一
皆様からのサポートは映像作家として奈良を撮影する事に限って活用させていただきます。 撮影での出来事や思いをnoteに綴ります。 撮影のテーマは「奈良には365の季節がある」