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ヤマトノミカタ#81「吉野山の結界」

神社における結界とは、鳥居であったり、注連縄(しめなわ)、紙垂(しで)などで、穢れがあるものを防いだり、そこが特別な領域であることを示している。
それが、段差であったり、橋であったり、石であるかもしれない。
一般の人が見落としてしまうような物であっても、心得のある人が見れば、意味のあるサインが神社やお寺にはたくさんある。

鳥居をくぐる時、真ん中を歩かないのは奈良生まれの母親から教わった。
京都の伏見稲荷では千本鳥居の向こう側は異空間の雰囲気が漂っていた。
春日大社の参道には一ノ鳥居から本殿まで8つの橋がある。その橋を渡る度に、神様の近くへ進んでいるという実感があり、次第に街の音は遠くになり、静寂にに包まれて、気持ちも鎮まっていく。

インバウンドに賑わう今はどうだろうか。千本鳥居は人気の観光スポットとなり、混雑する錦市場となんら変わらない。昼間でも怖っかた空気はもうどこにもない。
春日大社の参道にある橋に気が付いている人はどれだけいるだろうか。
紙垂が付けられた縄が張ってあっても、それをくぐっていく人もいる。
「立ち入り禁止」と張り紙をしなければ、結界があることにすら気が付かない。

そもそも橋とは川を渡る目的以外に、違った世界を繋げる意味を持っている。
大河ドラマ「光る君へ」の最終回で道長とまひろが殿中で再会し、廊下の延長である橋をはさんで向かいあった。まひろは橋を渡ることなく振り返って道長から去って行く。道長も橋を越えてまひろを追うことはない。
これは二人が同じ世界では生きていけない、その覚悟を表現している演出である。
この橋は2人の心の間にできた結界なのかも知れない。

そして、結界は人が作り出した物だけではない。
地形が結果的に結界となっている。山であったり、川であったり、道であったり。
逆に人が自然の地形を結界として利用している。

私は吉野山へ行く時、吉野川がその結界だと思っている。
車であっても、電車であっても、吉野川を越えると、神仏の世界へやって来たとの引き締まった気持ちになる。私にとって、吉野川は吉野山と俗世間の結界である。

東京から奈良へ帰って来た時は、近鉄電車の車窓から平城宮跡が見えて広い空が広がると、奈良へ帰って来たという実感がわく。
そういう意味で、平城宮跡は都会と奈良の結界なのかも知れない。
この記事で紹介するのは、そんな思いを込めた吉野川鉄橋の映像詩。
この橋を渡ると、そこは修験道の聖地・吉野山、神仏を中心とした世界。
そんな吉野川に日が沈むと、ウグイスが鳴き始め、間も無くすると吉野山は桜の季節を迎える。

*吉野川
https://youtu.be/ExeSmWTE9h4

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