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ヤマトノミカタ#4「神と仏」

「神と仏」
都会で育った人が奈良に来て驚かれることの一つに「お寺の中に鳥居がある!」
奈良で暮らす私たちにとっては当たり前のことだから、驚かれたことに驚いてしまう。
年越しはお寺で除夜の鐘をつき、年が明けると神社で初詣。
暮らしの中に神様がいて仏様がいる。都会での暮らしと違うのは、人と神仏の距離がとても近いことだ。
奈良全体が自然と人々が共存する里山のような地域であり、自然と神仏が重なり合っている感覚がある。
奈良の祈りは、太陽や山に手を合わせる原始的な宗教の要素が色濃い。
そして、無意識に神様や仏様との向き合い方を使い分けている。
そこで、奈良で暮らす私の神仏への向き合い方を紹介する。
ほとんどの人は神仏に手を合わせる時に何かお願い事をしているのではないか。私は神仏に自分自身のお願い事をすることはあまりない。
東大寺の大仏殿には観相窓という小さな窓があり、年にたった2回だけ開かれる。中門から大仏殿を見上げれば観相窓から大仏様のお顔を拝むことが出来る、そんな風に一般には説明されている。
しかし、観相窓の本当の意味は少しニュアンスが違う。東大寺塔頭のご住職に教えていただいたのだが、この観相窓は人々が大仏様を拝むために設けられたのではなく、大仏様が世の中をご覧になるために開かれるのだ。
自己中心的に物事を捉えているなら、この発想は浮かんでは来ない。
私はお盆(万灯供養会)には必ず大仏殿の中門基壇の上に立ち、大仏様に今の自分を見てもらう。
大仏様に見られて恥ずかしい自分ではないだろうか、大仏様の前で堂々と向き合える自分であるだろうか。
大仏様は私にとってまるで現生の閻魔大王のような存在である。

「お天道様は見ている」最近はそんな言葉を聞くことが少なくなった。
奈良で暮らす私にとって、大仏様に見られても恥ずかしくない生き方が出来ているのか。
一年に一度、自分自身を見つめ直す機会でもある。
もし、その時に心の中に良心に恥じることがあれば、大仏様から隠れずに潔く悔い改める。
そして、大仏様に見ていただいた後は、必ず春日大社の中元万燈篭にお参りする。
中門の前に背筋を伸ばして立ち、二礼二拍手一礼。お祈りするのではなく、ただひたすら感謝する。
「私を生かしてくださりありがとうございます」

お盆の夜、東大寺での悔過と春日大社での感謝。神と仏に向き合う真夏の一夜を過ごす。

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保山耕一
皆様からのサポートは映像作家として奈良を撮影する事に限って活用させていただきます。 撮影での出来事や思いをnoteに綴ります。 撮影のテーマは「奈良には365の季節がある」