創価学会男子部員の叫び
この記事読んでめちゃくちゃ刺激受けた
学会員の私からしても、過去の学会にまつわる歴史を振り返ろうとするが、ただただ事実が陳列されているデータが存在しないことを不満に思っていたからだ
私は学会3世で、創価大学卒業生だ
創価大学では大学運営の中枢にいて、学生部時代、幹部にはならなかったが人材育成グループに属していたこともある
入学式で創立者・池田大作先生を見ることができたが、それが最初で最後の出会いだった
就職は民間だったり公務員だったりしたが、学会内では一男子部員として活動している
実家はいわゆる地域の学会の拠点だ
私の実家は山奥の寒村で、町ひとつが地区となっている。母は昔から地区婦人部長で、父はもう10年くらい地区部長を務めている
祖父自身は語らないが、祖父は町中の人を折伏し、地元を含む市一帯の組織を護った存在だそうだ。聖教新聞の目標数報告の締め日の朝に「あとどれくらい足りない?」と聞くときっちりその数を揃えてくる姿はかっこよかった
私はこんな熱烈な学会員の家族の元で育ったが、創価学会に対しては不信しか抱かなかった
例えば座談会だ
実家で毎月座談会を開いており、小学生の時何回か参加したことあるが、とても暗くお葬式のような雰囲気で全く楽しくなかった
家族も参加するかどうか聞かないので、隣の部屋でテレビ見たりゲームしたりしていたが、中学卒業とともに下宿することになり、「挨拶しろ」とのことで再び参加したが、やっぱり暗くて馴染めなかった
よく座談会は「希望のオアシス」と聖教新聞上で呼ばれることがあるが、それは嘘っぱちだと思った
後に下宿先の座談会に参加して、実家の座談会と全く違う世界が存在があることを知り、それはそれで複雑な思いを抱くのだが
また、家族が家族として機能しているように見えなかったことも、私にとって創価学会への不信を募らせる一因となった
父母は毎晩怒鳴り合うように喧嘩していた
嫁姑のいざこざも食卓を囲む度に起きていた
それを見ている祖父は何も口を挟まなかった
弟とは喧嘩ばかりしていた
一家和楽を説く学会員の家族なのに、なんでこんな家庭で生きていかなきゃならないんだ
嘘っぱちじゃないか
当時の自分はそう思った
ただ、南無妙法蓮華経と唱えれば、自分の奥底から力が出るのは感じたし、学会の出版物「人類みんな十界論/みなもと太郎」
「心の傷が治った/織田由香里」
「希望対話/池田大作」
を読むと納得することばかりだし、生きていく上での指針にもなり困難を乗り越えられた。何よりたくさん色んな本を読んできても解決できない問題を乗り越えられていく経験は得がたいものであり、信心の凄さを身をもって体験させるものだった
身近なふたつの出来事と自分の信仰体験から大きな疑問が生じる
それは、「仏法は凄いのに、身近な学会員はそれらと全くかけはなれている。それは何故なんだ」という問いだ
中学2年生で自分の大部分を占めた問いに対し、納得出来る答えを見つけるまで今までの人生のほとんどを費やしてしまった
本当にもったいないことをしてしまった
そんなことを思ってる時に冒頭の記事を読んだ
ありのままの学会員の姿を描かれている本はほとんどない
言論問題や宗門事件の時、何が起きていたのか事実として私たちは知ることができない
学会側の出版物は大本営発表みたいなものだし、学会以外の出版物も事実を並べているものは無い
なにか意図や思惑が絡んでいるものばかりだ
そうした書籍はいらない
学会員たちが、その時に何を感じどう動いたのか、その記録だけが欲しいのだ
だからここに、自分の感じてきたこと考えていることを残し、少しでも学会研究の一助になればと思う
他の組織同様、学会にもいい所悪い所がある
組織内で変えていこうとすること、組織の外から変えていこうとすること
このふたつはされてきたが、ただ淡々と記録を残していく取り組みはほとんどないのではないだろうか
どこか不文律で、学会の内部の情報を発信していくことは「反逆者」と見なされるような雰囲気があるのではないか
しかし、スマホが普及し誰もが情報を発信できるようになった時代でそんな雰囲気が残っているのは時代遅れである
私は一方的に学会を持ち上げることもしないし、一方的にこき下ろすこともしない
学会員からもアンチ学会からも喜ばれない記事を書きたい
それが、日蓮仏法のため、広宣流布のためになると私は信じている