春一番、その風穴

今年もまた二月が来た。二月の空気には、どことなく終わりの気配が滲んで、溶けているように感じる。短い秋が終わって、紅葉した木の葉が木枯らしに絡め取られて落ちていく、冬がはじまろうとする十一月にも同じ様な事を思うのだけど、二月は冬が終わって春になろうという季節である筈なのに、この儚さは二月の短さがそうさせるのだろうか。終わりの気配は、死の匂いだ。或いは、離別の兆しだ。そして困ったことに、その気配を背中に感じながら、僕はそれほど嫌な気がしていないのだ。赤信号を無視した春一番が交差点を吹き抜けて、傍らで自転車に跨っている僕のキャスケットを少し浮かせる。隣で明滅する青の光と、残り香のように漂う死の残像。つられて踏み込もうとしたペダルの先で、まだ赤のままの信号に慄然とする。そんなくだらない景色がどこか、嫌ではない。街中でキャンディーズが、もうすぐ来るであろう春を歌い始める時分です。あけましておめでとう。

最近はなんだか、贅肉を削ぎ落として、僅かばかりの筋肉も落ち始めて、骨ばった躰を胎児のように抱えて眠っているような気分で。生活をしていくために、生きていくために必要や臓器を売って泡銭を掴もうとするような日々。煮えくり返る腸すらもうなくて、伽藍堂の腹の底に呑み込んだ言葉が積もっていく。不完全燃焼、この言葉の遺灰にもう一度火を点けることができたなら、臍で茶を沸かすくらいのことならできるかもしれないね、なんて嘯きながら、腹にも、茶道の家元も、裏があるのは常のことで。この漠然と、でも執拗にこびりつく不安が、どうか裏腹なハッピーエンドを呼び込んで欲しいなぞと思いつつ、エンドロールが流れ終わる頃に初めてハッピーが訪れるようなハッピーエンドなら、終始ハッピーなエンドロールを映す銀幕に風穴を開けるような胸糞展開を突きつけられるバッドエンドの方が幾分マシな気さえする。死装束を予め決められる程度のいとまがあれば、それなりにいい人生なんじゃないですか。知りませんけどね。

某多目的芸人が活動を再開するらしい。伴侶が許しているなら別に他所様が口出しすることではないと思うけど、誰がテレビで彼を見て笑いたいと思うんだろう、とは心底思う。罪を憎んで人を憎まずなんて言葉は的外れで、大抵の大衆はちゃんと罪を犯したそいつを憎んでるんじゃないかなと思います。別に僕は憎んじゃいないけど。でも不思議だなと思う。万物の霊長ことホモ・サピエンスともあろう生物が、わざわざ結婚という煩わしい(であろう)手続きを踏むことも厭わないくらいに愛し合うことが出来る個体と出会っても、その相手と築いたあらゆる事象を、時間を、一瞬でゴミ箱に棄てることになりかねないような過失を考え無しにできてしまう物なのだろうか。結婚したことがないので生憎分かりかねるけど、自分が出来ない人間であってほしいとは思う。綺麗事かしらね、でもそれくらい重くあってほしいよね、結婚ってさ。

汝、病める時も健やかなる時も、云々。結婚という形を選ぶにせよ、選ばないにせよ、何なら別に恋愛や友情の形ですらなくてもいいのだけど、共感や共通言語がなくても、足並みが必ずしもいつも揃わなくても、僕の人生に彼女や彼の椅子が常にあって、逆も須らくそうあれるような、そんな関係性になれるといいなと思います。野蛮な椅子取りゲームなんてしたくないからね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?