君の膵臓をたべたくない

多分、やろうと思えば"誰からも愛される文章"だって、それほど労せずに書けると思う。強がりや負け犬の遠吠えの類ではなくて、客観的に自分をそう思う。僕は多分昔から、そういう勘が鋭くて、そういう勘の鋭さが僕の首を緩やかに絞め続けているのだ。きっと今も。そしてそれについて思いを馳せるとき、僕はなんとなくMOROHAが「MOROHA」と名乗っている意味を肌で感じる。剥き出しの刀身を時に我が身に受けても、その刀を抜かなければ届かない鋒に、きっと彼らの愛すべき、そして断ち切るべきしがらみがあるのだから。傷つく覚悟も、当然傷つける覚悟も背負った上で、言葉の鋒を振り下ろす様に、その生傷と返り血の中に、六文銭だけ握りしめたあの人たちの影が焼き付くわけで。生き様は死に様で、死に様が生き様。僕は君の膵臓をたべたくない。

たべる、という行為について考える。僕は"たべる"ことが得意じゃない。自分が殺めてきた幾多の生命と、僕自身が肌身離さず握りしめるこのたった一つの生命が同じ重さになる道理がまったく分からない。幼い頃から少し油断した隙に、この焦りに襲われてしまう。だからこそ、精一杯生きましょう。だからこそ、感謝の気持ちを忘れずに。言いたいことはよくわかる。わかるけど、わからない。わかりあえない、そんなこと。この気持ちが行き過ぎたとき、僕は物を食べられなくなる。AVを観ていて、この女優さんにも親がいて、友だちがいて、嘗てか、或いは今も、愛し合った誰かがいて、そんなことを考え過ぎてまったくAVを観られなくなったことが何回もある。今日もどこかで、名も知らぬ赤の他人の誰かが死んで、或る人は苦しみの果てに、また或る人は絶頂の最中、その命の灯火を絶えたと思うと、のうのうと息してる自分に反吐が出ることがある。きっと僕がただ極端なだけで、世の中の殆どはそんなこと生涯に一度だって考えずに生き続ける。それでも僕が何も成せず、屍同様に生きたこの日を、どれだけ苦渋を舐め、どれだけ涙を零しても生きられなかった誰かがいることを思うと、居るかどうかも分からないその誰かへの、届かない「ごめんなさい」が止めどなく溢れ出す。僕は"いきる"ことが得意じゃない。それでも今日も、いきる、という行為について考える。

僕は服が好き。でも服を作るのにだって生命が使われる。普段ラビットファーのハットを好んで着用している僕が、うさぎの屠殺の実情を知って絶句してしまったことがあった。僕は君らの生命まで背負って生きていくしかないけれど、僕に君らの生命を背負えるような資格はまるでないのだ。ヴィーガンの主張はきっと正しい。正しいけど僕は自分が間違っていると知りながら肉や魚を食べるし、レザーやファーを着るし、今日も今日とてのうのうと息をする。正しいだけの行いをしたいなら、きっとヴィーガンだってヴィーガンを名乗るより前に自らの命を絶つでしょう。いきることはきっと、奪いながら、勝ち取りながら、それを摂理として受け入れる土台がある生き物の特権だ。野生の掟を失って尚、僕たちはその連鎖の外に出たわけじゃあないのだから。

書き始めた頃には想像もしなかった、思想染みた記事になってしまったけど、別に僕に取り立てて変わった思想を持っているつもりは無い。何よりも忌み嫌う、間違いだらけ、矛盾だらけ、理不尽だらけの世界で僕は生きている。それを忘れたくないだけ。ミカサ・アッカーマンも言っていたように世界は残酷で、とても美しいから。そうじゃなきゃあとても生きていけない。

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