極彩色の黒
花言葉に興味を持ってから、花を好きになった。何でもない日に花を買って帰ってみたり、道端の雑草や駅前の花壇に目を向けることも増えた。花を愛でる文化がある国に生まれたこと、或いは、季節が移ろい、その時々の花を直に見られる国に生きていること。和食が世界的に珍しいのは、その季節ごとに旬を迎える多種多様な食材を織り交ぜた食事体系であるということが少なからず影響していると思うが(勿論見た目の美しさやヘルシーなことも重大な要素だけど、それも"旬"という概念で説明できそう)、野菜や魚に旬があるように、花にもまた旬があって、人々はそれを見頃と呼んだ。収穫と鑑賞を同じ「狩り」という言葉で表すのって見方によっては風流なのかもしれない。食べることと同じくらい、美しき森羅万象を目に焼きつけることは生きることに直結する。実際、エディブルフラワーとかそんな話じゃないけど、和食と花は結び付きが強い。もうじきに3月がやってくる、ライオンのように。
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、映画も原作の詩集も未鑑賞だけど、素敵な文字列だなと思う。《ちょっと黒いくらいの青い空がよく似合う》、なんて歌詞の曲もある。そんなに着てるつもりはないのに、他人からよく、いつも黒い服だよね、なんてことを言われる私。そうかなあ?と思うけど、まあよく言われる。特に親しくない他人からよく言われる。黒い空はきっと最高密度の青で、黒い血はきっと再高密度の赤。バナナの斑点は再高密度の黄色だろうか。僕が身に纏う"黒"。僕は青が好き。赤も好き。黄色も別に嫌いじゃあない。今は嫌いじゃあない程度だけど、僕が好きになったものがもし目が眩む程の黄色だったら、きっと僕は黄色も好き。僕の好きになったものたちを寄せ集めて、切り取って、貼り付けて、幾多の極彩色が混ざりに混ざった"黒"のドレスを身に纏って、踊り狂うように生きていきたい。音楽が鳴り止まないうちに踊りきるために、今日も少し生き急ぐ。
この世の中に、僕じゃなきゃいけないことなんて幾つもないだろうと思う。大抵のそれはまやかしだ。そして別にそれでいい。心に空いた穴を埋める方法、もういない誰かの等身大の穴。それを寸分の齟齬もなく埋めるには、その誰かじゃなきゃいけないのだろうけど、後天的に空いた穴なんて幾らでも埋め合わせが効くような気もしてくる。だってその穴って生まれた時から空いてたわけじゃないでしょきっと。くり抜かれた心の塊がどこかに落ちてるはず。「君じゃなきゃ出来ない仕事を選んでほしい」と言われた。言ってることはよくわかる。でもそんなもの多分ないじゃん。"僕が世界一上手く出来ること"はきっと何個かはある。誰にだってある。"僕にしか出来ないこと"は多分ない。誰にもない。大体の人生は代替の人生。為せば成るなんてことはないから成るまで為す。僕ら生きるの下手くそなのでね、騙されないぜトリックスター。腹括っていきます。また明日。
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