マーマレード

こんなプラットフォームに居ることが何よりの証左ではあるのだけど、僕はそれなりに自分の話をする。している。はずだ。はずなのに、いつも何処か、自分の感情が吹き溜まった名も無き臓器の上に閉塞感を憶えている。「それじゃあ今日はなんでも聞くよ、話してご覧?」なんて言われてみても、上手く言葉は出てこない。話したいことは見つからない。だってそれなりに話しているから。臭いものに蓋をすれば、壺の底で臭気は強さを増していく。黴臭いエアコンの冷風を、埃臭い扇風機の風でかき回す。きな臭いネットニュースの見出し、胡散臭いWeb広告の嵐、そのどれよりも面倒臭い、そんな私の話。

こんなことを言いながらも、僕は週に一度のお休みで大好きな音楽を流して、大好きな服を着て、誰にも見られてないからと変な踊りを踊って部屋中をクルクル回っていたりするわけで。頭を振って揺れる髪、揺れる服の裾、僕はそれなりに、僕の機嫌の取り方を知っている。知っている、でも分からない、自分のこと。そういうことに関しては他人事の方が余っ程簡単だ。分かった気になって、分かったようなことを、分かったような顔で、分かってるよと言ってやればいいのだから。無論これは方法論の話で、そんな無責任でいいのかと問われればそれは正論なのだけれど、極論他人に関することなんてどこまで行っても無責任にしかなれないし、逆説的に言えば自分のことに関してはどこまで行っても自己責任でやるしかない。「この世の不利益は全て当人の能力不足」だとしたら、これは強者の理屈ではなく寧ろ、全部自分が悪いと思ってしまえば楽だって知ってる程度の弱者の理屈と考える方がしっくりくる。自戒ですらない、諦観のための自己暗示。抗うのはきっと、自慰行為か自傷行為のどちらかだ。

思えば幼いころ、マーマレードが苦手だった。今となってはオレンジピール入りのマーマレードが大好きなので、当時の僕にとって何が嫌だったのかイマイチ思い出せないけど、多分理由なんてあってないようなものなんだと思う。何事も。変えられるものが自分なのか、変わらないものが自分なのか、未だに僕には分からない。変えようという意志を介入させてできた僕、紛れもなく僕が作った僕なのに、変えられない僕の中にこそ、目を合わせるのも厭になるような本当の僕が潜んで、こちらをじっと睨んでいるようにも思える。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているように。それは除いてきた悪い芽に含まれた毒を飲んで眠りにつくようで、或いは、剥いてきた棘を喉に刺して血を吐いて叫ぶようで。掌の上で踊らされているのなら、酔狂に踊り歩いた仕舞いの一歩で背中にナイフを突き立ててやるような心持ち、足取りで。白黒つかない大抵の物事は灰色で、そんな灰被りの姫が魔法にかかって舞踏会に行けたようなこと。何色かに染る時はせめて、全部の絵の具が混ぜて溶けた、最も醜い色の中に。

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