その瞬間。 改めて「アーティスト」と名乗る
久しぶりのnoteですが、ここで二十数年ぶりに自分を「アーティスト」と呼んでみたいと思います。
親しくさせていただいている大成功された方に「NFTアートやったら?」と言われたのがきっかけで、NFTアートを出品してみることになり…
どうせやるなら世界のマーケット!ということで(笑)
英語で書き始めたこちらのブログ→ ShunEguro.com に投稿している記事のいくつかを日本語でも書き綴っていこうと…今日から少しずつアップしていきます。
※ OpenSeaでNFTアート出品中です→ こちらからご覧ください
ただ、90年代前半の僕を知っている人はともかく、2000年以降に私と関わった方は私がそもそも芸術や文学に深く関わっていたことすら知らないと思うので、気恥ずかしいのですがどうかよろしくお願いします!
これは日本語訳が難しいのですが、95年前後に私が書いた一編の詩です。San Franciscoの小さな出版社の詩集に掲載されたものの1つで、当時の僕の想いが垣間見えます:
なかなか青臭くて恥ずかしい(笑)でも、正直なところ僕はまだこの瞬間を待っているのですよね…。
自分を「アーティストです」と紹介しなくなってから25年以上が過ぎました。僕が定義する「アーティスト」とは、純粋な「創造の下僕」であり、明らかに少なくとも僕は17歳から21歳までは「作品を生み出すこと」以外に存在する目的のない、忠実な創造の下僕だったと言えます。実際のところ当時の僕を知る人のイメージはそれしかなかったと思います。
当時の僕の存在意義は、絵画や版画を生み出すビジュアルアーティストであり、詩や小説を一心不乱に書き綴る作家であり、ビデオや16mm映写機で実験的な映像を制作するフィルムメーカーでもあり、つまり「アーティスト」であることでした。
上記の詩はサンフランシスコの小さな出版社から発行されてた「33 Review」という詩集に出版されました。90年代半ばにミッションのバーで行われていた詩の朗読会でよく呑んだくれて読んで(叫んで?)いました。
当時僕は21歳かそこらでしたが、その後一体何をしていたんだろう?
実際のところ、僕にとってアメリカでの生活はこれ以上なく素晴らしいもので、全く日本に戻りたい気持ちはなかったんです。
ですが、やはり家族もいて、長男だったりもあったことと、あとは漠然と「いつでも帰れる」という根拠のない確信があったんですね。
ところがその後、就職したり結婚したり、起業したり…帰るどころか自分の居場所から動けなくなってしまいました。
自分の長所でもあり短所でもある「柔軟性」と「器用さ」が災いしてしまい、何でもなんとなくそれなりにこなしてしまうし、できてしまって…気づいたら自分にとって一番大切だったものをないがしろにしてしまったんですよね。
ですが、普通にずっとサラリーマンをやるでもなく、学習塾で起業したりWeb制作会社をつくって地域情報誌を発行してみたり、そこから派生したご当地アイドル運営で音楽業界の端っこで頑張ってみたり、どこか「異質」な人生を歩んできたので…
自分ではしまい込んだつもりだったのですが、きっと僕はどこかで「アーティスト」である自分のままでいたのだと思います。
結局、「アーティスト」でありたい。それが自分が一番大好きで、失いたくなくて、誇りに思っていたことだと気づくのになぜか25年もかかってしまいました。
長い休暇だったな、と。
なぜ僕がまた改めてこの世界に戻って来ようと思ったのかを説明すると長くなるのでこれからぼちぼち書き綴っていこうと思います。よかったらぜひたまに覗いてみてください!
そして「その瞬間」が見つかることを願っていただければ!