映画『容疑者Xの献身』

(ツイッターと同時投稿)

久々に映画の『容疑者Xの献身』を観た。何度見返しても日本推理小説の輝かしい到達だし、映画はさらに美徳を増している。単なる推理小説にあらず、それが伝えるテーマは何よりも重厚である。

愛とは何か、とはこの作品は問わない。それは結論もなく不毛だからである。この作品は、ただ一形態を示すだけである。しかし逆説的に、だからこそこの作品は他のどの作品よりも、「愛とは何か」という根本的な答えに最も近く接近している。

苦痛を分け合うこと。その苦痛を相手に転嫁せず、専ら自分が背負うこと。たとえ自分が砕けても、相手には転嫁しない。もしくは、苦痛というものはどうしても偏りがちで、同程度には経験できないけれど、それでも、それでも、同じ苦痛を抱こうともがく人たちの物語。

最も醜悪な形で、最も崇高なものを表しているところにこの作品の根本的なアイロニーがある。このような逆説は、作品の到る処に隠してある。ただ留意すべきは、その苦痛を背負おうとする人間は石神だけではない。むしろその石神の意を汲んでの花岡の方だってそうであること。それで愛という平等な関係に立つこと。

しかし、四色問題が示すように、留置場で石神がつぶやくように、「隣り同士が同じ色になってはならない」ゆえ、結局のところ同等にはなりえない、愛の不可能性というものがそこにある。これらのメッセージを表すには確かに推理小説、なお倒叙という形式でしか表現できない。

形式上の美徳がしっかりと内容上の美徳を支えている。金字塔としかいいようがない。映画の、否、愛の孕む逆説が、こうしてやっと合体するのである。調和へ至る道程は逆説で満ち溢れているのである。だから、是非この映画を見る際には、逆説と調和、愛と欠如というキーワードを常に念頭において観ていただきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?