老子道徳経と中医学的身体観⑤
老子道徳経 虚用第五と言う副題。
鳳凰堂流解釈
中医学の身体観として、
ただそこにいる(無為自然、脱力)から、
立つ(乾坤定位)、動く(乾坤坎離)と空間の大きさ、上下前後左右或いは上下内外を指定していきましたが、今回はこの空間(枠組)がただあるだけで膨張、収縮している様子が表現されています。
気功学は調身、調心、調息と言う三調合一を目的の1つとしています。
今までは身体と言う空間の言及。
今回は調息。
それを更に人生にまで敷衍してみました。
天地自然の法則性は、形で表現すると太極というスタンダードな基準があり、ここに太過(過剰)、不及(不足)という微妙な変動があり、この太過(膨脹)、不及(収縮)は常に又太極へ戻ろうとしている。ただ、それだけである。
太過すれば不及へ向かい、不及となれば太過へ向かう。結局は大きさを観なければ太極を維持している。ここに何かが影響する事はない。使うべきときに該当する太極を使い、使わなければその太極から離れる事が肝要である。
これを人の生き方に照らし合わせると、常に主観と客観と照らし合わせ、自分自身も客観視できる事が聖人と言われる人間性にまで昇華できているのではないだろうか。
ただただ、人の、或いは自分の生まれ出でてから今に至るまで、そしてこの世の人生を終えるまでを俯瞰して意見しているだけである。それは、どのような技であれ、物事であれ、生き物であれ同じ法則性の中にある。
直訳:
天地不仁なりて、以て萬物鄒狗となす。聖人不仁なりて、以て百姓鄒狗となす。
天地の間、それ猶槖籥のごときか。虚にして屈せず、動きていよいよ出ず。多言はしばしば窮す、中を守るにしかず。
原文:
天地不仁、以萬物為鄒狗。聖人不仁、以百姓鄒狗。
天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言数窮、不如守中。