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養生訓 巻六 醫を擇ぶ 鳳凰堂流解釈⑤
原文を現代文に改変
古人、醫なる者意なりといえり。
云う意は、意(こころ)精しければ、醫道としりてよく病を治す。
醫書を多く読んでも、醫道に志しなく、意あらく工夫くわしからざれば、醫道を知らず、病を治するに拙きは醫學せざるに同じ。
醫の良拙は醫術の精しきと、あらきとによれり。
されども醫書をひろく見ざれば、醫道をくわしくしるべきようなし。
鳳凰堂流意訳
古人は、医とは意であると言う人もいた。
これは意(こころ)や志が高ければ、医道を良く理解しよく病を治すと言う意味を持っている。
医学書を多く読んでも、医道に志しなく、心が散漫で工夫、練磨する気持ちがなければ医道を理解できず、病を治療する技が拙ければ、医学を用いて治療していないのと同じである。
医の良拙は医術の精しさ、粗さに依存する。
しかしながら医学書をひろく読んでいなければ医道をくわしく知る事はできない。
鳳凰堂流解釈
鳳凰堂では、東西の伝統的な医学書だけでなく哲学書、宗教書等も知るべきだと考えて研鑽しています。
なぜなら現代日本だけでなく、歴史上も生死の概念や薬、毒の概念など時代によって異なったり、認識の違いがあるからです。