老子道徳経と中医学的身体観㊶
副題 同異
中医学的身体観としては、
循環(太極)と言うテーマが相応しいでしょう。
1つの太極(円相)は他の太極とは干渉せずに、ただ循環しています。
但し、1つの循環に干渉する太極があれば、その関係性の下で又新しい循環を構築しようと変化もします。
近代中医学はこの概念を捨て、動かない型、形としての太極だけに絞ってきています。
それは良く言えば近代化、現代科学化ですが、定量化すると視野が狭い状態での確定となり、その他の可能性が削除される為、いつまで経っても道を歩む事はできません。
いわゆる、道を聞いて笑い嘲る人のようです。
鳳凰堂流解釈
ここに書かれている、上級、一般、下級とは職業ではなく、人の知性や思考、感性のレベル。
他人の言っている事は、自身の評価には何ら関係がなく、自身が大切だと感じるものを突き詰めていく姿勢こそが大切だと言う事を教えてくれています。
そして完成の道が見えてもひけらかさず、ただただ愚鈍に極め、完成すれば又道を探る。
鳳凰堂流意訳
上級の人は道を聞けば、道(タオ)と調和して生きようと一心に励む。
一般の人は道を聞いても明確に理解はしていない。
下級の人は道を聞くと、馬鹿にして笑い、嘲る。
この下級の人が馬鹿にするほどでなければ真正の道とは言えない。
昔から「道を体得している者は、一見愚鈍にみえる。道を進む時は後ずさりしているように見える。平坦な道でも、歪んだ道を歩いているように見えてしまう」 と言われている。
すぐれた人格者は、欠点があるのような空っぽに見え、真っ白な物は、汚れているように見え,、混じりけのない真に価値あるものは、汚染されているように見える。
広大な空間には角がない。
偉大な天分の持つと、成熟までには時間がかかり、
すぐれた音楽の音色は聞き取れないほどかすかで、
巨大な形には輪郭が見えない。
そして道は無名なままに隠れている。
こうしたあり方の中で道はあらゆるものに力を貸し与え、ものごとをありのままに成就させる。
直訳
上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。
中士は道を聞きては、存するがごとく亡(うしな)うがごとし。
下士は道を聞きては、大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。
故に建言(けんげん)にこれあり。「明道は昧(くら)きがごとし。進道は退くがごとし。夷道(いどう)は纇(けわ)しきがごとし。上徳は谷のごとし。大白は辱のごとし。広徳は足らざるがごとし。建徳は偸(かりそめ)なるがごとし。質真は渝(かわ)るがごとし。大方は隅(ぐう)なし。大器は晩成す。大音は希声なり。大象(だいしょう)は無形なり」。
道は隠れて名なし。それただ道は、善く貸(か)しかつ成す。
原文
上士聞道、勤而行之。
中士聞道、若存若亡。
下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。
故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、大白若辱、廣徳若不足。建徳若偸、質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且成。