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養生訓巻第一 貝原篤信篇録 総論上 ⑰ 鳳凰堂解釈
[原文を現代文に改変]
人生五十にまでなっていなければ、血気はまだ定まっておらず、智慧もまだ開けていない。
古今に疎く、世変にも慣れていない。
言はに誤りが多く、行動に後悔が多い。
人生の理も楽もまだ理解できていない。
この為、五十に至らず死ぬ事を夭(若死)と言う。
これもまた不幸短命と言うべきである。
長生すれば楽多く益多し。
日々にまだ知らない事を知り、月々にまだできない事をよくする。
従って学問を長進する事も、知識が明達なる事も、長生しなければ得難い。
この観点から養生の術を行い、天年を保ち、五十歳を越え、その人それぞれの成るべきほどに長生して、六十以上の壽域に登るのがりそうである。
古人は長生の術があると言っており、また人の命は自分自身にある。
天にあらずとも言え、この術に志を深く持てば、長生を保つ事は人の力でどのような形でも実現できると言う理である。
これを疑わずにいれば、ただ氣荒く使い、欲を欲しいままにして堪えること無く、慎みなき人は、長生を得る事ができないことが分かるはずである。
鳳凰堂流解釈
いつの世も説明の枠を狭める事で、断定しますが、断定はあらゆる側面から見た場合、一方向から、一定条件の下でしか達成できない事が分かります。
昔の五十歳と言えば死が間近に感じる年齢。
現在は何もしなくても、倍は生きる事ができますので、この尺度も倍近くになりますが、実際には若い方でも沢山の方がこの観点に至っておられます。
つまり、一般的な観点では上記のように言えますが、書と読者は1対1。
これを読む時点で、ここまで何度も繰り返す必要はないと思いますが、
それほど当時の世相として、養生をおざなりにし、寿命と言う死に近づいてからやっと自分を振り返る人がいると叱咤しているのでしょう。
そういった観点からは、人は今だけを刹那的に生きがちなので、人生や命全体を俯瞰した上での、今を存分に生きる事が大切だと考えています。