養生訓巻第二総論下 鳳凰堂流解釈㉘
原文を現代文に改変
何事もあまり良くせんとして急げば、必ず悪しくなる。病を治するも亦たしかり。病あれば、醫を選ばず。導引、按摩も亦たしかり。我が病に当否を知らで、妄りに治を求むべからず。湿治も亦た然り。病に応ずると応ぜざるを選ばず。妄りに湯治して病を益し、死に至る。凡そ薬治、鍼、灸、導引、按摩、湯治、この6つの事、その病とその治との当否を良く選んで用ゆべし。その当否を知らで、妄りに用ゆれば、誤りて禍を為す事多し。これ良くせんとして、却って悪しくするなり。
鳳凰堂流意訳
何事もあまり良くしようとして急げば、必ず悪くなる。
病を治すのもおなじである。
病になると治療法を選ばない事が多い。
導引、按摩もまた同じである。
自分の病に合っているかどうかも分からず、妄りに治療をするものではない。
湿治も同様。病に対応しているかどうかを選ばずに、妄りに湯治して病を悪化させて死に至る。
薬治、鍼、灸、導引、按摩、湯治、この6種の治療法は病とその治療との適正を良く選んで用いるべきである。
その適正を理解せず、妄りに用いれば誤って禍となる事が多い。良くしようとして却って悪しくする。
鳳凰堂流解釈
病に適した治療法の選択は医師が行うだけでなく、本人が理解し選ぶ必要がある。
治療家、患者のどちらもが十全に正しい生理的循環となるように思いを馳せ、努力すれば治らないものはない。
これは治療家だけがいくら技術を高めても、患者自身が心しなければ、その場は治っても、後にその人の人生は同じ循環を繰り返し、同じ病或いはもっと大きな病になる事を痛感している鳳凰堂の考えですが、奇しくも貝原益軒氏も同様に考えている事が見てとれます。
患者の病には歴史があり、患者自身がこれを捉えていなければ、小手先の症状に拘泥し、老いと共に人道から修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄道と、逆循環していく事が経験として身についていますが、
現代ではそこまで俯瞰して自身を考える人が少なくなり、目の前の症状をすぐに治める為だけの薬に飛びついている人々と同じようにみえます。
社会が、目の前の金に飛びつく人が偉いと言う風潮となり、当たり前になっている事をもう一度考え直すべきだと思っています。