医心方 第二十七 養生篇 大體第一(7)鳳凰堂流解釈
稽康は、竹林の七賢に数えられる三国時代の魏の人です。
途中登場する曽子は、孔子の弟子であり、「孝経」、「大学」、「曽子」等を書いた人と言われています。
稽康の養生論には、
「養生には五難ある。
名利(出世や肩書)を捨てられないのが一難。
喜怒(七情・感情)を除外して思考できないのが二難。
声色をつけて表現してしまうのが三難。
美味しいと思うものを飽食してしまうのが四難。
思慮し過ぎて精を散らしてしまうのは五難。
この5つは人が必ず起こしてしまうもので、どのように努力しても起きてしまう事が多い為、短命になる。
その為、この5つを胸に秘めながら、信、徳を持って行動し、目先の欲が楽しむ事を慎む事で本質的な福が訪れる。
寿命を長く保ちたいと思わなくとも、これで自然と伸びる。
これもまた養生が伝える大切な教えである。
仁義を重んじ、平和を強調することはこの次に来る事である。」と書かれています。(かなり意訳w)
また、養生論には、
「神仙は目には見えないし、記載されている文献や、歴史も少ないが、これに関して考えることは必要である。
特に自分とは異なる気を受けるという事に関しては、自然に何かを受けるものと同じであり、学問で分かるものではない。
道を養い、理論を自身で構築することで性命を尽くせば、最低でも数百年、長ければ数千年魂は意識を持つ。
しかしながら、世の中の人は今現在の命にだけ関心を持ち、この点を詳しく追求しない為にこのようにはならない。
汗を出そうと服薬しても汗が出ない事があるが、意識が変わればドッと出る事がある。
普通は朝食を摂らなければ食の事ばかりを考えがちだが、曽子は悲哀の心を持っていた七日間(人は7日間水を摂取しなければ死ぬという考えを元にしている)は餓えたという感覚を持っていなかった。
夜中に坐って寝ないようにしていても直ぐに眠りに落ちてしまうのに、憂慮が内にあれば朝になるまで寝られない。
髪をしっかりとブラッシングし、顔を良く擦れば形だけでなく性質も輝く。
身体の強い人が突然カッと怒りを出すと外観が変化し、怒髪天を衝いたように見える。
これは精神が形に現れる状況で、君主が国に現れる状況と似ている。
神が騒いで形の外へ出ると死ぬように、君主が物事に明るくなければ、国が乱れるようなものである。
実るはずの苗を湯のような世の中に植えれば、収穫があることもあるが最終的には焦げ枯れる。
1つの収穫は必ず後には枯れる。
それならば、その益は元々固執すべきものではない。世の常として、1回怒った程度では性を破る事はなく、1回悲しんだ程度では身体を破る事はないと言われるが、それを軽んじていると目先の利益に興じて大切な苗を早く育てようとしている人と同じ事になる。
このような考え方から、熟慮している人は、形というものは神の動きに従って立つもので、神というものは形があるからこそ存在できているという事を理解しており、性命の理は失われやすいことを分かっており、少しのやり過ぎが性命を害すると考えている。
従って、性命を修めることで神を保ち、心を安定させ、それによって身体を寿命まで持たせる。
愛憎や七情を心身に常駐させず、憂喜があっても意に留まらせる事がない。恬淡無欲で惑いがなければ身体も心も気も調和できている証拠となる。」と書かれています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?