自分の考えを純粋に表現することはできるか? ——高瀬隼子『うるさいこの音の全部』と言語のホラー
1, 2ヶ月に1回小説の読書会をしている。そこで2月の課題本に選んだのが、芥川賞受賞作家の高瀬隼子の『うるさいこの音の全部』(文芸春秋)だった。
「うるさいこの音の全部」と「明日、ここは静か」という、一続きの作品が収録されている。表紙は、『スマホ時代の哲学』と同じ森優さん。最近むちゃくちゃ活躍していますね。
ゲームセンターで働く人物が芥川賞を受賞し、小説家になることで段々自分の言葉が、話すことが、人間関係がぎこちなくなっていく様を描いている。小説家としての自分と、そうでない自分の関係がうまく取り持てなくなり、周囲の人との関係にも変調をきたしていく。
小説と私生活や仕事先、周囲から見られる自分と自覚している自分など、いろいろな線で「嘘」と「本当」の区別がなされていくけれど、どの区別も機能不全だったり、自分にはしっくりきていなかったりして、どうにも苦しくなっていく。誰にも何も話せないし共有できないと感じながら、取材などで求められると平気でベラベラ話しだす。そんな人が主人公の小説です。
創作論として読める
創作論としても読める箇所が多いのも印象的だ。
何度も消したり書いたりする。一度全部消したはずなのにもう一度同じ文章を書く。句読点の位置を変える。主述を入れ替える。戻す。そういった作業を全部undoする。執筆の時間は、大体こういう作業ばかり。その感覚を、そうして突き動かしてくる腹の中の「衝動」を、うまく言語化していると思う。
どうでもいいことだが、「腹の中の熱」に突き動かされるというのは、『3月のライオン』の島田八段の胃痛を思わせる。不如意(自分ではどうにもコントロールできないもの)が「腹」にあるという身体感覚は、なんとなく納得できる。背とか脚にある感じではないな、っていうか。
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