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【試し読み】〈永遠には続かないもの〉と、旅のパラノーマルなリズム

ZINE『暮らしは、ことばでできている』を9月の文フリ大阪で頒布します。

その内容のメンバーシップ向けのチラ見せとして、私の原稿の一部(冒頭部分)を公開してみますね。結構力を入れて書いたので面白がってもらえるとうれしい。


「永遠には続かないもの」と、旅のパラノーマルなリズム

「世界のおわりだ」「おわりではない」
kashmir『ぱらのま』白泉社 四巻


 何かがはじまってしばらくすると、おわりを想像する習慣がある。大学時代に、中学校以来仲のいい人たちと地元で集まって遊んだときのこと。歩道をゆっくり歩きながらみんなで雑談しているのに、その会話に入るのを避けて一番前を歩き、「もうこの時間もおわりか」と悲しくなっているのに気づいて、我ながら気が早いと思った。解散の時間まで、まだ数時間以上あった。

 同じことを思ったのは保護猫を撫でるときで、彼女に親密さを感じるときほど、別れの瞬間のことを考えてしまう。何事もなければ、私はこの猫より長生きする。だから、このなだらかな首筋を、よく動く尻尾を、顎から生えた少しかたい毛を、その表情豊かなヒゲを、薄桃色に色づいた柔らかな肉球を、ふわふわした背中を思い出しながら、ある日を境に何度も泣くだろう。

 朝起こされたとき、寝る前に猫を撫でるとき、作業中に猫が私に向かって鳴くとき、いつもそんな気持ちを片隅に置いて猫に話しかけ、その毛並みを撫でている。彼女は、撫でられ足りないときは私の近くにきて、ピスタチオ色の瞳でじっと顔を見つめ、しばらく待ってから小さく鳴く。その細くなった目、ピンとした耳、甘えた表情。


 何をもって「おわり」とするのか、絶対的な基準はない。それでも、区切りや節目を置かなければ連続的に変化する事象を把握することも、意味づけることもできない。「夏が終わって、秋がくる」と平気で口にするけれど、これは、連続的に変化する季節や気象に適当な切れ目を入れて、「ここ」と「あそこ」という区別を設けているから成り立つ発話だ。この区切りがなければ、夏と比べて秋がいかに涼しいのかを語ることもできない。会話は、おわりのおかげで成立していると言っていいくらいだ。

 どこまでがAで、どこからがBなのかを適当に区切る。元々は連続量なのだから本質的にはどこでもいい。一度どこかに線を引けば、AからBへの変化に気づくことも、それらを数え、比較することもできる。だから、「分ける」ことが「分かる」ことにつながるという、使い古された言葉は確かに正しい。

 しかし、何かのおわりを感じて区切ろうとする営みは、その意味を理解したいという知的ニーズから生まれたわけではない。むしろ、何かの「おわり」を指さし、ある部分を他から切り出して特別視する行為自体が、人間にとって心地いいことだ。意味があるから区切るわけではない。区切ること自体に気持ちよさがある。永遠に続くものよりも、おわりあるものの方に人間は惹かれてしまうということだ。

 kashmirさんの旅行マンガ『ぱらのま』(白泉社)は、なんとなく主人公の「おわり」への関心の持ち方に納得感があるというか、やけに親近感が湧く。七巻二七話(Line.27)では、彼女が旅行で「おわり」を目指す感覚について友人と会話している。

「それはそうと、今日はどうしてここに?」
「うーん、わかってもらえるかわかんないけど、無性に終着駅に行きたくなるんだよね」
「はあ」
「2ヶ月に1回くらい。ここより先はないことの果て感というか」。

果てや執着という言葉が、唐突に途絶したものの余韻を感じさせ、あるいは、それに続く何かへの予感を呼び起こすのかもしれない。

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