今知りたい「止観」のこと
こんにちは。
今日はこの「止観」という言葉についてのお話。
ググってみますと…
> ① 雑念を止めて、心を一つの対象に集中し、正しい智慧を起こし、対象を観ること。天台宗がもっとも重視する修行実践法。
> 仏教の瞑想法の一つ。止は心を乱さず特定の対象に注ぐこと,観は止によって正しい知恵を起こし,一切の対象を明らかに観察すること。この両者を互いに成立させて仏道を完成する実践法とする。
などとありますが、
>「止」とは一切の迷いから離れた究極の精神状態である禅定のことであり、
「観」とは迷いを生みだす心そのものを冷静に観察する智慧のことである。
この2法は車の両輪、鳥の両翼と同じで、どちらか一方に偏ると、誤った考えに陥ってしまうことになる。
とまぁ色々書いてあります。
なぜこの話かと本題に入ると
「ないものを定義するにはどうすれば
よいか?」という話につながるかと思ったからです。
形のないもの、例えば「時間」
みんなが時計を導入して、一定時間動くものを
定義しているから
とか
太陽や月の満ち欠けなどを基準にしているから
約束やルールが形づくられます。
何時に来てね!
何時間働いてね! などです。
定義やルールがあるから実体化しています。
では、幸せはどうでしょう?
テレビを見て、あれがほしい!→手に入る→幸せ
みんながやっていることができる→幸せ(というより満足かな)
人と比べて感じたりはしないでしょうか。
スキーをしないひとからしたら、スキー道具には
興味はありません。
つまりなくても幸不幸はありません。
興味があれば、手に入る→幸せ
だとしたら、「止」で感情を止めて、
「観」で
自分が幸せだと思えること、嬉しく思うことを
自分で定義化すればよいのでは?
と思ったりしたからです。
日本は何とかだ!という方がいても自分の周りにはそれはない場合、
ないから定義できない。
だから
自分でその何とかだ!を再定義して
ルール化してもよいわけです。
公共的なものはまた別ですが、
幸せが何かは自分が定義すれば
他は関係ないのです。
先日、すごーく仕事で帰りが遅く
なりすぎ
お腹は減ったけどすぐに買えるのは
寒いのにアイスの自販機しかない…
ということがありましたが、
今時駅には暖房がある待合室もあるので、
真夜中でもお腹空いたからアイス!
しかも友人と話ながら食べるそれは
側から見たら、聞いたら
つっこみどころ満載ですが、自分的には
「アリ」でした♪
見ている人も殆どいないし、
それも幸せだと自分が思ってるからアリ♪
なんだと感じた次第です。
あの人は幸せそうだ
の幸せは、あの人が自分の定義で
なんか幸せそうにしているだけかも。
なんだかなぁと思う日は、
ぜひ「止観」で、思考を止め、
自分の定義づけで考える。
そうしたら引き寄せもうまくいくかなと思います🌸