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【ホツマの論点】 さかのぼる縄文と弥生の前倒し ~「弥生時代区分不要論」を呈す~ <99号 令和30年10月>

 戦後の縄文ブームは、1952年の岡本太郎「縄文土器論」からの第一次、1972年の縄文杉年代推定からの第二次、1994年の三内丸山遺跡栗柱発掘からの第三次と続き、今に至っています。この夏には、東京国立博物館に国宝六点が集結し、映画『縄文にハマる人々』も公開されて、昨今、空前の縄文ブームなのだそうです。

 50歳代の筆者が少年の頃、縄文時代は7~8000年前で、紀元前300年前後に弥生時代へと移行したと習った記憶があります。その後、縄文の始まりは倍近くさかのぼり、弥生の始まりも紀元前千年(今から約3000年前)ほどに前倒しされてきました。縄文は平和で自然と調和し美と躍動感に溢れ、弥生は衣食住の文明が萌芽したと教わりましたが、『縄文ブーム』に踊る人々も、おおむねその意識で「一万(数千)年の日々」に憧れているように思います。

 縄文と弥生の線引きは、元々は土器の作法の違いにありましたが、稲作農耕、高床式建造物と大規模集落、織物や冶金技術の有無によって「未開/文明」の区分けを行いたいが為に、強調されてきました。しかし、1990年代以降、考古学的知見が深まり、それら「文明の証拠」が相次いで旧来縄文期と思われていた時代区分に発見されたので、弥生の始まりは、ダラダラと前倒しされました。いずれ「証拠発見」は、さらに数千年前倒しされることになるでしょう。何故なら、ホツマツタヱに記録されているように縄文時代には、既に定住型の栽培農耕技術と「ムロヤ」建造・「ハタオリ」「カガミ」等の技術を有し、「クニ」を治める意識を自覚していたからです。

 本誌掲載の千葉富三論文による時代考証では、アマテル誕生が今から約3300年前、クニトコタチの出現は、さらにその約一万年前(五百継天の真榊)です。アマテルの四代前のウビチニの治世には、月次祭で脱穀した穀類の粥が神饌です。かけひ(樋)による灌漑稲作は古く、いせき(井堰)やつつみ(堤)による治水での水田耕作をアマテル孫のニニキネが開拓しています。水田遺跡が希少なのは、三、四千年後の近代まで(あるいは現在も)、継続して水田地帯だからです。アマテルが「天七代」の継続であったように、「弥生」は、(文明的に)縄文の継続に他ありません。縄文は、世界古代文明に匹敵する「日本大和文明」の黎明です。縄文/弥生の時代区分はもはや、不要でしょう。

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近年、縄文ブームは続いており、縄文アゲがすすみ、現代日本人の縄文時代への憧れが強まってきています。一方の、弥生時代は、きわめて恣意的・政治的な時代区分であり、大東亜戦争後の日本人を呪縛してきた怪しげなものです。未開だった日本に文明をもたらしたのは、半島&大陸からきた文明人だった、という虚構の呪縛です。

この小論考は、その後の筆者とらさんの基本的な考えにつながるものであり、わたしにとって重要な提起でした。ホツマ的に考えると、いわゆる弥生時代はアマテル時代とも観ることが出来ますが、縄文と弥生の時代区分は、不要です。弥生は縄文の継続であり、それはヤマトタケの活躍まで続き、その後の古代動乱期に移行していくのです。

上記(↑動画)の見立ては、現代人の意識高い系の考え方をよく現していますが、「水田稲作を半島からゆるやかに受け入れた」という呪縛概念に囚われていて、結論を見誤っています。水稲栽培は、縄文時代から湖沼エリアで広く普及されていて、ニニキネの時代から(つまり紀元前千年頃から)ため池灌漑農業が全国展開され、順次河川の治水灌漑事業も手がけられていたのです。

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