
駒形一登 全仕事 0007
ミソギとウタ 2014-01-28 12:56
@gejirin1 Twitter 2014/01/18
身体と心は、外側と内側とも見ることができる。世の政事は外側のものごとであるから、イザナギは川や海での禊ぎで身を清めた。つまり身の清めは政の正しを象徴している。しかし政の基礎が通る以前の段階では、まずアワ歌で言葉を直して、人の内側を調えなければならなかった。こんなことをホ5文は言うとるんかと思ちょります。
したがってこのアヤのタイトル「わかのまくらことば」は、「ことばは沸のまくらである・ことばは繁栄の土台である」という意味も表しているのかと思ちょります。つまり「沸のまくら、言葉」ちゅうことだす。
これは前からもやもやと頭の中にくすぶっていたのですが、はっきり表現できずにおりました。つまり「イザナギの川海での禊ぎは何を象徴しているのか?」についてです。それが先ほどの宏道さんとのやりとりで雲が晴れました。宏道殿、あなありがたや。
+++++++++++++++++++
駒さんは、和歌のワカを「沸」と漢字書きします。多くの研究者は「若」と書いており、とらさんは「湧」と書いたりします。
和歌は、心を若返りさせる効果を持ちますが、それだけではありません。元の状態、素の状態に甦らせて、新たにイノチを「沸かせる/湧かせる」はたらきをもつものです。
それは「リセット」とは少し意味合いが違って、時空的にゼロに戻すことではないように思います。ホツマの世界観は「めぐり」なので、常にゆらぎ、高低し、膨張収縮を繰り返しています。
どの様な状態にあろうと、その中心「なかご」を捉えていれば良いのですが、往々にして「軸がずれる」という状態に陥ります。外界からの刺激に気をとられて、軸を離れて寄せられたり、引き離されたりするのです。
軸がずれると、地に足がつかなくなり、腰が浮き、思考が空回りしてしまいます。「ケガレ」に囚われていると、軸を見失ってしまいます。
それを自覚した時に「みそぎ」が必要になるのでしょう。「みそぎ」には、「水」や「塩」や「無想」などを使う作法がありますが、ホツマツタヱでは、「ウタ」の作法をとても重視しているようです。
+++++++++++++++++++++++
このことは、ホツマの世界観と、仏説の世界観を比較する時にも、大切な気づきを与えてくれます。(日本仏教は、隠れホツマ教なので、日本仏教の話ではなく、原始仏教との比較です)
生老病死の四苦を実存の根源と捉えそこからの超克「悟り」を求道する仏説は、日本人には馴染みません。たとえば「空」という哲学が提唱されるわけですが、それはイノチのめぐりに対する態度です。「空」の態度とは、相対化することによる一種の拒絶、もしくは没入といえましょう。虚無か帰依か、になりがちです。
日本人にとって生老病死とは、「おのずから」でしかありません。日本人にとって、己が身体と心は天と軸でつながっている自覚ゆえに、身体と心の「ゆらぎ」など苦しみではありません。「ゆらぎ」は「めぐり」なので、軸が保たれていれば、「なんも問題ない」のです。すべてが晴れやかなのでしょう。軸さえ保たれていれば。
水のみそぎも、ウタのみそぎも、「柱を立てる」作法です。つまり、軸を据え直す作法です。なかでもウタは「ヨソヤ/48声」の神々のチカラをこころの内に組み立てる作法ですから、効果が高い。「沸く/湧く」のです。
天界へと旅する駒さんとも、こうして語り合うことが出来る。「イノチのめぐり」を受け容れれば、四苦八苦も楽しみの内といえましょう。
駒殿、あなありがたや。
+++++++++++++++++++++++
本論とまったく関係ないけれど、↑ こちらのチャンネルお気に入りです。
スケールの大きい人物が、近頃少なく見えるのはわっしが、若い人をあまり知らないからかな、、、