【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ㊴「けくにとみ」と「いわひぬし」 <123号 令和4年10月>
アマテルが基を築いた徳治の原則には、両羽の臣による分権輔弼の仕組みがありました。鏡の臣と剣の臣によってバランスをとる、という近代の三権分立にもつながる治政の要諦でした。けれども、神武の大和朝以降は、両羽制が形骸化されていきます。その代替えに生まれたのが「食国臣/けくにとみ」と「斎主/いわひぬし」です。
「けくにとみ」は、先ず「みけなへまつりもうすをみ/神饌供え祭り申す臣」として、コヤネの孫であるアメタネコと鰐彦クシミカタマが、神武の大嘗祭の折にふたりで任命されました。ユキ・スキの宮に神饌を供えて、天地の神を祭り供奉しました。この時は祭事の臨時官であり、常設ではなかったようです。
その後、二代綏靖天皇が、ウマシマチを「くにまつりみけなへもふすをみ/国政り神饌供え申す臣」として常設官に任命しました。この役職が後に、「けくにとみ」あるいは「まつりのとみ」として呼称されるようになったようです。
そして、それは後の律令制における「太政官/おおいまつりごとのつかさ」につながるのでしょう。
「いわひぬし」は、東征中の神武が丹生川にアサヒ宮を勧請してアマテルとトヨケを祭った際に、ミチヲミ(道臣命)を任命しています。
『斎瓮を作り 丹生川の ウタに遷せる アサヒハラ アマテル・トヨケ 二祭は ミチオミぞ』ホ29
やはりこの時は、祭事の臨時官でしたが、三代安寧天皇が、ウマシマチの孫のオオネを常設の「いわひぬし/斎主」に任命しています。
『タケイイカツと イツモシコ なるケクニ臣 オオネ臣 なる斎主』ホ31
ちなみに、この時に「けくにとみ」になったイツモシコとは、やはりウマシマチの孫でオオネの兄です。
この「斎主/いわひぬし」は、鏡の臣の大役であった「最高裁判事と厚生福祉」の役回りが削ぎ取られています。後の律令制における「神祇官/かんづかさ」につながる役職と云えましょう。
神武以降の大和朝では、アマテルの治政以降、ほぼ世襲であったカガミトミ(カスガ系)とオオモノヌシ(ソサノヲ系)を国政実権から遠ざける意図がはたらいていたとみる見方もあります。
中央政府の強大化とともに、徳治政治から律令政治へのうつりかわりがあるように思えます。
(駒形「解読ガイド」千葉「甦る古代」参照)
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古代史を勉強すると「物部氏」という古代氏族の謎に辿り着きます。現代のアカデミズムの「定説」では、「物部氏=出雲系」と理解されています。これが全くの間違いであることが、ホツマツタヱを読むとわかります。
アマテル神が樹立した三権分立「みやことり(制)」は、神武以降は形骸化されていきます。左の臣と右の臣が分掌する原理は崩れ、簡単に言えば、中央集権化されていくわけです。その推進母体となる古代氏族が物部氏です。
ソサノヲに連なる大物主系(物部氏とは異なる/ =三輪・賀茂系)と、アマノコヤネに連なる春日系(後の中臣・藤原系/鹿嶋・香取とも繋がる)の二代有力氏族は、神武以降は「敬して遠ざける」施策で、政権中央から引き離されていきます。(春日系は、物部氏の没落を受けて後に復権します)
左右の臣の無力化で生じたスキマを埋める形で誕生したのが、「けくにとみ」です。人皇二代綏靖天皇以降に、その傾向は強まり、律令制の太政官に繋がっていくのです。
日本国は縄文期の徳治国家から、律令制国家となり、武家政権樹立後も不思議なことにその屋台骨は生き残りました。明治大帝は、徳治国家の復権を強く意識しましたが、内務官僚による「集団的太政官制」が成立し、世界情勢により官僚軍事国家として近代を邁進したのです。
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