デカ盛りメニューは気づけば「強制大食いチャレンジ」へと変貌していた
食べる事は生きることだ。だから生きる為には食べなければいけない。でも、食べ過ぎると人は死ぬ。今日私は、生きる為に死にかけた。もうしばらくは大食いはよそうと思った。
私は所謂「大食いチャレンジ」というものをやった事がなかった。そんな事をするのはバラエティ番組とかで視覚的情報が面白いからとか、皆でパーティー的なノリでやるだけだと思っていたからだ。
なのに、私は今日初めて大食いをした。知り合いがそんな話をしていて、何も考えず、ただ何となく行ってみようかなと思った。
春の陽気がそうさせたのか知らないが、本当に何も考えていなかった。
店にたどり着き、店主さんだろうと思われる人にサイズ感を聞く。
「ペロッと食べてしまう人もいらっしゃいますよ!」
とのことだった。なんだ、その程度のことならば私でもいけるだろうと思った。食べきれなくても容器に入れて持って帰れるとのことだったから安心だ。
しばらく店内が物色する。その店の歴史やら色紙やらが並んでいるのを見るのが好きだ。
料理が届く。ネットで事前にサイズを見ていたけれど、実際に確認すると現実に気づく。おかしい。食える気がしない。
ただ、私はそんな過酷な現実を忘れようと、脳死で料理に食らいつく。
「うん、美味しい!」
カツと焼肉が白米に乗った、約2キロぐらいあるだろうその料理に対してその台詞はあまりにも短絡的だ。
30メートル級の巨人の足に少々打撃を与えただけで勝てると思うくらい浅はかだ。
間違いなく味は美味しいのだ。だが、客観的に見ればその美味しさが最後まで続く訳がない。何故なら満腹は美味の大敵だからだ。
半分くらいまでは美味しかった。しかしその先は苦難の道だった。
油が重い。カツよりも焼肉の方が口に運ぶのが辛い事をしった。
味噌汁が旨い。油っぽさをかき消すその汁物は胃袋を回復させた。
淡々と食べ続けること残り四分の一。酸素が欲しくなるから息が深くなる。血液が胃袋に行くから意識が朦朧とする。余計なエネルギーを使いたくないから目を閉じる事が多くなった。
これって死に向かっているんじゃないのか?なんて思いながらも少しずつ料理を口に運ぶ。
無論、容器に入れて持って帰るという手段もあった。だが、実際に食べ進めるとそんな選択肢を取れなくなることに気づく。
例えばマラソンで30キロのコースを走っている時に、「あと、3キロでゴールできる!」という状況になったなら無理して走るのではないだろうか?
その時の感覚だ。完食という事柄がゴールになっているし、容器に入れるという事は敗北を示しているように感じてしまったのだ。
「大食いチャレンジ」は能動的にするものではなく、気付いたら強制的にせざるを得ないものになっているのだ。
その時に気づいた時には遅かった。
自分が自分を強制する。
「容器に入れてください!」と言った時に店主はどんな表情をするだろう、どんな事を言うのだろう。
「容器に入れてください!」と言った私は私の事をどんな風に捉えるだろう。家に帰って容器のご飯を食べる時、どんな気持ちだろう。
あとちょっとで完食できる、できるのだ。
そんな感情が私の体を勝手に動かす。その時には申し訳ないが「美味しい」という感覚はなかった。フードファイトという言葉はこうやってできたのだと分かった。
なんやかんやで、無事に完食した。
少しでも油断すると口が何が出てしまいそうな気分になりながら、店主に笑顔で挨拶をする。
美味しかったからまた来たいと思ったが、大盛りはもう勘弁だった。
総評としてはいい経験になった。人生で一度くらいはこういう体験も良いのではないかと思った。
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