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雑学マニアの雑記帳(その8)嬰ハ短調

ある言葉が、歴史上初めて文献上に現れた時期、すなわち「初出」年代というのは、言葉の歴史を紐解く上で大変重要な情報である。英語においては、オックスフォード英語辞典(OED)が広範な英単語を集めて、その初出年代や意味の変遷について、事例付きで詳しく記している。OEDの編纂が開始されたのは一九世紀の中頃であるため、それ以降に使われ始めた「新語」については、順次取り込まれている筈である。OEDが出版されて以降、新しい言葉の誕生や意味の変遷は、リアルタイムで追いかけて記録され続けていることになる。英語という言葉の歴史を振り返る上で、OEDは非常に強力な道標となっているのだ。
一方、日本語においては、日本国語大辞典という素晴らしい大巻が存在するが、その成立は二〇世紀の後半である。初出を特定するためには、過去の大量の文献をしらみ潰しに調査する必要がある。特に明治期に西洋文化の流入とともに造られた大量の新語のひとつひとつの成立年代を調べ上げる作業は、気の遠くなるような膨大な手間が必要となる。まだまだ隅々まで充分な調査が及んでいない部分があるのも仕方あるまい。
OEDの成立には、多くのボランティアの協力が重要な役割を果たしたとされるが、日本国語大辞典においても同様の取り組みが進められている。現在、日本国語大辞典は第二版が出版されているが、第三版に向けて「日国友の会」を結成し、ボランティアによる情報提供を募っている。インターネットを通じて誰でも会員登録可能で、「第二版」に未収録の見出し語や初出年代情報の提供を行う仕組みが用意されているのだ。
例えば、音楽用語の「長調」という言葉、誰でも知っているような言葉だが、「第二版」によると、初出は一九〇九年の「音楽字典」となっているが、実際には一八八三年に文部省が発行した「音楽問答」という書籍で既に使われている、といった指摘が「友の会」宛てに寄せられている。こういったボランティアによる指摘を参考に、第三版の編集に向けた準備が進められているようだ。
このように、まだまだ改善すべき点を含んではいるが、日本国語大辞典が信頼度の高い初出情報源であることは間違いない。個人的には、言葉の初出問題は非常に興味ある分野であり、この辞典には日々お世話になっている。第三版以降の改定・出版にも大いに期待したい。
さて、先ほどの例に挙げた音楽用語に関する初出年代の指摘を見ていて、「音楽問答」なる文献の存在を知り、どのような文献なのか興味が沸いてきた。日本で最初に「長調」という言葉が使われた本である。何が書かれているのか気になるところである。
早速、国会図書館の公開データベースで検索してみると、その全ページがインターネット上で閲覧可能であることが判明した。これは有り難い。早速中身を見てみると、「長調」「短調」「音程」「拍子」「音符」「楽譜」「音階」、等々現在使われている音楽用語の多くについて説明されている。説明文では、例えば「全音符ハ其形状鶏卵ニ似タリ。二分音符ハ柄ヲ持チタル白符ナリ。」などと明快に解説されている。この文献は文部省が発行したもので、西洋音楽教育を始めるにあたって、その教育者向けに取り急ぎ編集したものらしい。
音楽問答が出版された当時の音楽用語(訳語)事情については、日本現代音楽協会誌「NEW COMPOSER」に上田真樹が寄稿した「明治音楽事始」という解説文に詳しく記載されている。音楽用語の翻訳にとりかかった文部省の音楽取調掛は、当時すでに西洋音楽本の翻訳作業を行っていた瀧村小太郎から訳稿を買い上げ、それをベースに取捨選択・改案を行い、「音楽問答」として纏め上げたということだ。
文部省は、単純に瀧村の翻訳を受け入れるだけでなく、改案しているというのも面白い。例えば、シャープ(♯)、フラット(♭)については、瀧村はそれぞれ「利」「鈍」と訳したのだが、文部省が見直した結論は、それぞれ「嬰」「変」であった。嬰などという漢字は「嬰児」くらいしか使い道が思いつかない馴染みのない文字であるが、雅楽の用語で音程を上げたり下げたりする際に、嬰や変という用語が使われていたことから、採用することになったようだ。
嬰や変といった馴染みのない言葉でも、文部省が決定して音楽教育の中で使われていくうちに、これらの用語がすっかり浸透していくのだから面白い。現代では、話し言葉としては英語式のC♯(シーシャープ)やドイツ式のCis(チス)、あるいは「ドのシャープ」といった表現が使われることが多いが、書き言葉としては「嬰ハ音」といった表現も使われている。文部省が瀧村の案をそのまま採用していたならば、「嬰ハ短調」や「変イ長調」ではなく、「利ハ短調」や「鈍イ長調」などという言葉が普通に使われていたことだろう。
もっとも、「音楽問答」で導入された音楽用語が、全て現在まで廃れずに残っている訳ではない。今や消えてしまった言葉としては、和絃(和音)、唱謡音楽(声楽)、節度(リズム)、重力(アクセント)、延符(フェルマータ)、尖点(スタッカート)、帯(タイ)などが挙げられる。このあたりの変遷理由についても興味は尽きないが、深掘りを始めると切りがないので、この先はいずれ機会を見つけて探究していくことにしよう。


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