目標の呪縛
支離滅裂だか、思ったままに最近頭の中を渦巻く諸々をそこはかとなく書きつくろうと思う。
さて、先日宿に来てくれた方に、
「noteに書いてる件がやっぱり目標ですか?」
と問われた。それは四年前に書いたこの記事である。
久しぶりに読んでみるとありがたいことに「割りと達成できてるんじゃないか」と感じる。一方で、さもすると
「じゃあ、これからなんのために働いたり、生きたりするんだろう」
とも思った。
なんとなくこの感覚は宿を始めて数年以来、少しずつ大きくなりつつあった。一昨年だったか名古屋から来た20代前半のお客様に「今後の野望とかビジョンってあるんですか?」とキラキラとした目で問われた。正直、スッと言葉が出てこなかった。無論、いまもそうなのだが。
目標はある程度達成して、幸せみたいなものを感じている。ありがたいことこの上ないと思う。だから明日に絶望はしていない。
なのに、突然焦りを感じたり、自殺した有名人のニュースを見ると「死のうとは思わないけど、死にたい気持ちも分からなくもない」という不思議な感覚に陥ったりする。
少し前「近代は目標という呪縛に囚われている」という一説をみつけた。だとすれば、私は死ぬまでひたすら目標を立て直し続ける人生を歩むのだろうか?そう思うと少し息が詰まる。
今思うと、目標を立ててそこに向かって努力するということに、生まれてこの方ずっと囚われているのかもしれない。それは部活動、受験勉強、留学、就活そして今の事業運営も。
またとある日、福井から比較的年の近いお客さんがやってきてくれた。不思議なもので、私とどこか似た人のように思った。
日頃は一人暮らしで一人の寂しさに襲われるくせに、ときおり突然一人になりたくもなるよね、と。
4・5年前、とある女性が
「分かり合えないという点においてだけは、分かり合えると思いますよ」
なんてことを酔っ払った勢いで私に説いてきた。当時は何を言っているかさっぱり理解できなかったが、今はほんの少しだけ分かるような気もする。
確かに心の底から理解し合えるかはわからない。でも自分と同じように一人が寂しく思えたり、一方で一人になりたいと思っている人が眼の前にいる。そんなことに先日、妙な安心感を覚えたものだから。
この状況を浅はかな傷の舐め合いだ、もはやマスタベーションだと馬鹿にする人もいるのかもしれないけれど、そんな出会いが今の私を支えているようにも思う。
目標が今後も必要なのか?
それすらもうわからない。
ただそんなモヤモヤを少しでも共有できる人と出会いながら、一緒に四苦八苦していければ。
そして今や、この苦しみこそが明確な目標には代えがたい人生の楽しみなのかなとも思い始めている。
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