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気を遣わないという気遣い

公認会計士の一次試験が12月に終わり、それまで遊べてなかった分を取り返すかのようにこの冬はいろんな人とお酒を飲み、遊んだりした。元からお酒が強い方ではなかったが、より弱くなった気がした。お酒は飲めば強くなるという迷信があるが、あれは本当なのかもしれない。

さて話が変わるが、諸々の飲み会を経て、気を遣わないという気遣いがあるということに気づいた。例えば、飲み会でみんなが1杯目にビールを頼む中、自分の好きなものを頼むことはこれにあたると思う。気を遣えば、周りに合わせビールを飲むところだが、自分の好きなものを頼むことで、他の人も自分の好きなものが頼みやすくなるだろう。逆もあると思う。気遣いが負の効果をもたらすことだ。例えば、一個残しである。他に食べたい人がいるかもしれないからと食べずに待っていて、皿も片付けることができないし、いいことはあまりないように思える。
気を遣わないことでいいこともあれば、気を遣うことで悪いこともあるんだと思う。

飲み会以外でも気を遣わないメリットはあると思う。
先輩に気を遣いすぎてる後輩より、ちょっとくだけている後輩の方が仲良くなりやすいし、気を遣いすぎてる人の評価は高くなりづらい傾向にある気がする。これは堅すぎる人間とそうでない人を比較したので、そりゃそうじゃんと思うかもしれないが、気を遣わなすぎる人も僕はすごいと思う。
気を遣わなすぎる人は周りに対しても気を遣わせないので、周りが言いたいことを言える状況を作り出していると思う。お笑い芸人で考えてみればわかりやすいのではないだろうか。一般にクズ芸人とされている人(ex:ナダル,ラランド ニシダ)は周りに対してあまり気遣っているようには見えない。故に周りもその人には気を遣わずに言いたい事が言えるんだと思う。気を遣わずに物事が言い合えるので気疲れはしないし、上辺だけの関係にはなりづらいと思う。今回例に出したのがクズ芸人とされている人なので、友人になりたいかと言われたら微妙なところだが、気を遣わなすぎることにもだいぶメリットがあると思う。

上記の具体例から「気を遣う」ということは部分的に相手の行動を制限してしまうことにつながるのではないとかと思った。気を遣う→相手も気を遣い、言いたいことが言えない=相手の行動を制限させてしまう。今回は発言だけを切り取って説明したが、行動などでも制限させてしまうこともあると思う。
気遣いは適切な場面で使うことで初めて気遣いになるんだと思った。

当然ながら気を遣うメリットもある。相手が居心地良く過ごすために相手を慮ることは大切であり、人間社会においては必須だとおもう。また自身を守るためにも必要だったりする。パーソナルスペースへ侵入させないために周りに気を遣うことだ。実際に僕の友人にもそういう人がいて、お互いにパーソナルスペースへ侵入させないよう振る舞っているが、それを互いに理解しているので、気を遣いあっているが居心地が良いなんてこともある。

あーだこーだ書いたが、ここまでの結論として言いたいのは、気を遣うことは基本的に良いことだが、一概に良いとされるものではなく、時には気を遣わないということが良いこともあるということだ。
“時には“というところがポイントで、仲良くない人に「太った?」と聞かれるのはウザいだろうし、ところ構わずゲップしてる人は不愉快である。気を遣わないと言うのは相手に気を遣わせないと言う部分において優秀ということが言いたい。

僕は気を遣わないというのができていない。“できなくなった“が正しい表現かもしれない。子供の頃は好きなものを無邪気に好きと言っていたはずだ。人に合わせず、自分のやりたいことをしていたはずだ。それが成長していく過程でできなくなったしまったんだと思う。また人に気を遣わせないような気遣いができるほどまでには成長してないし、そこまで器用には立ち振る舞えない。それが故に新たな友人はできづらくなっているとも思う。
なんかマイナスに捉えちゃってるが、今いる友人も気を遣って仲良くなって、そこから次第にそれが削がれていってるし、そういう生き方でいいのか。

とりあえず次の飲み会は誰がいるとか構わずにハムカツとかいっぱい頼も。
おわり。

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