太陽の光に押し倒されそうになりつつ、それでもなにかは言いたがる。
気持ちや気分はいったい誰のものだろう。自分のものに決まってるという人がいるだろう。でもそういった気持ちや気分がころころ変わり、その時に発したそれらをいつも把握していられないとしたら、それはもしかして自分のものではないかも知れない。
かくいう自分というわたしがそうであり、それが躁鬱病ということだとしても、こういうバラバラを言葉という容れ物に入れるのは厄介だ。だからいっそずっと黙っていたいのだが、そうすると言葉のほうから擦り寄って来る。何か入れてくれ、盛ってくれ、うんぬんとしつこい。自分の感受性くらい自分で守れ馬鹿者めというようなことを言った有名な詩人はだからよほど言葉を袖にしたんだと思う。寄りかからず、なんていうほどの詩もあるし。
などと思っていたところでおしっこを採った。。定期検査だった。けっこう混んでてもう帰ろうかと思っていた。それまで外をぶらついていてどうしようもなく沈んで、太陽の光にさえ押し倒されそうだったのだが、それがおしっこを紙コップにチョロっと出したらアッと気づいてそれを便器に流したら急に気持ちが晴れた。初めの尿は捨てるというのを忘れたからだが今度はそのコップを手洗いで洗って水滴が付いてるかもしれないけどまあいいやと再び注入した。それを渡して血を採ってもらった。ん? と言う看護師さんに血管が細いですか、ううん、そんなことない、と返された。もうすっかり笑いたい気分だった。赤黒いぬるそうな溜まりがじわじわと満ちていってまるで気の利いた冗談みたいに見えた。
終わって外に出たところで結果を聞きにいく日を尋ねるのを忘れたと気づいた。。さっきまでならこれでまたいわれなく沈んでしまうところだが、ついでに買い物をして行こうかと悩んでいるということは。
あと30分は来ないバスを待つくらいの、少なくとも太陽の光を押し返すくらいのゆとりは、ある、ということなのだろう。