忘備録的な考察。〜躁鬱のわたしなりの仕組みと屁のつっぱり的な対処〜
わたしは躁鬱病という診断がついていて、それとの付き合いのなかで、いわば生活の知恵のように、感情の起伏を観察する癖がついている。喜怒哀楽という大雑把なものではなく、いま気持ちがもどんな表情をしているのか、というくらいの、いわば、気分のご機嫌、を伺うみたいなものに、あえて例えるなら近いかもしれない。
そんな中で、さまざまな表情を見せる気分の移り変わりが、一体どんなものからの影響を受けているのか、注意していることが多く、自分の外側にある事柄、ああ、こういうことなのか、と認識していることはもちろん、記憶を中心とした、過去にわたしが、ああ、こういうことなのね、と認識していたことに、今の気分が左右されていること気づいて。
そういう、認識といういうものに、ラップのように透明で柔軟なものを、被せてしまおう、そうすれば、直接、自分の外側あるいは内側からやってくるものの影響を受けにくくなるのではないか、と気づいた。いや、気付かされたのであってそのきっかけには、oshoというスピリチュアルの世界では有名な人物の言葉だった。詳しくは引用しないが、いまわたしが言ったことはその彼のほぼ受け売りだ。。ともあれ、自己暗示のようなものでさほどの効果もあるようで無いようだが、まあ気分の変動の振れ幅を少しは柔らかくしてくれるほどのことは、ある。
ちなみに、、躁鬱病には躁と鬱の時期があるとされ、わたしにもそれはあり、きれいに区切ることはできないがどちらかというといまは躁の時期だ。この時期には活動が活発になるとされ、実際にその通りだけれど、具体的に気づくことはわたしの場合、やたらと時間が気になるということだ。これは何かすべきことに追われている気がする、と、言い換えてもよく、予定があろうがなかろうがとにかく何かをして、また次に何かをして、そのためにはあとどれくらい時間があるか、みたいな感覚に囚われる。。とはいえ、鬱の時期でも似たような、時間にとらわれる感覚はあって、ただしこちらは、あれもできないしこれもできない、という、根拠のない焦りやそれにともなう落ち込みが表に出てくる。
いずれにせよ、、何かをしようとしてジタバタしても、何もできないとジリジリしても、やはり冒頭に言ったように、繰り返しだが、今の気分のご機嫌を伺う必要が、出てくるし、そうしないといわば無駄に自分の気持ちに振り回されることに、なるので。
透明なラップのような、認識、に被せる、おまじないのようなものは。
今のところ、案外と、気に入って、使うようにしている。。これも効果というほどのものは無い、思い込みだしまたもや、繰り返しだけれども。